ルノワールは何がすごい?「幸福の画家」と呼ばれる5つの理由|生涯・画風も解説

当ページのリンクには一部、広告が含まれています。
ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年 オルセー美術館蔵

ルノワールのすごさをひと言でいえば、光の中にいる人間の「生きている感じ」を、色だけで描き出したことです。木漏れ日が服や頬の上でちらちらと揺れ、肌には青や緑、ばら色の影が溶け込み、画面の中の人たちは踊り、食べ、笑っています。日曜日のダンスや川辺のランチといった何気ない幸福な時間を、ルノワールは絵画の主役にしました。

ただし、「きれいな人物画を描いた画家」で終わる人ではありません。印象派の中心メンバーとして出発しながら、40歳のころイタリアでラファエロに衝撃を受け、輪郭のはっきりした古典的な描き方へ大きく舵を切ります。晩年はリウマチで体が不自由になっても、豊かな裸婦を描き続けました。

この記事では、ルノワールが「幸福の画家」と呼ばれる理由を5つに整理し、代表作3点、生涯の転機、画風の変化、モネとの違い、そして日本でルノワール作品を見られる美術館まで順に紹介します。

目次

ルノワールとは?まず押さえたい基本情報

晩年のピエール=オーギュスト・ルノワールの肖像写真 1910年頃 ドルナック撮影
アトリエのルノワール。ドルナック撮影、1910年頃。Public domain, via Wikimedia Commons.

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、1841年2月25日にフランス中西部のリモージュで生まれ、1919年12月3日に南仏のカーニュ=シュル=メールで亡くなりました。78歳でした。モネ、ピサロ、ドガらとともに印象派をつくった画家のひとりです。

名前ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)
生没年1841年2月25日(リモージュ)-1919年12月3日(カーニュ=シュル=メール)
国籍フランス
主な活動地パリとその近郊(モンマルトル、セーヌ河畔の行楽地など)、晩年は南仏カーニュ=シュル=メール
美術運動印象派(1880年代からは古典絵画への回帰を強める)
主なモチーフ人物、女性像、子どもと家族、ダンスや食事を楽しむ人々、裸婦
代表作《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《舟遊びをする人々の昼食》《ピアノを弾く少女たち》《大水浴図》《浴女たち》
主な所蔵先オルセー美術館(パリ)、フィリップス・コレクション(ワシントンD.C.)、フィラデルフィア美術館、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)など

印象派そのものの成り立ちや特徴は、印象派の歴史・特徴をまとめた記事で解説しています。

ルノワールは何がすごい?「幸福の画家」と呼ばれる5つの理由

2026年から全国5会場を巡回している特別展「わたしたちのルノワール」の公式サイトでも、ルノワールは明るく幸福な雰囲気に満ちた作品で愛されてきた「幸福の画家」と紹介されています。では、その「幸福」はどんな工夫から生まれているのか。5つのポイントに分けて見ていきます。

1. 光と人物を、同時に描いた

ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年 オルセー美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年、オルセー美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》/1876年/油彩・カンヴァス/131.5×176.5cm/オルセー美術館蔵

モネが風景の中の光を追いかけたのに対し、ルノワールは「光を浴びている人間」に目を向けました。その代表が、パリ・モンマルトルの野外ダンスホールを描いた《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》です。

画面をよく見ると、木の葉のすき間から落ちた日の光が、白や淡いピンクの斑点になって、男性の麦わら帽子や女性のドレス、背中の上に散らばっています。人物の輪郭をくっきり描くのではなく、光の斑点で人を包み込むことで、ざわめきや音楽まで伝わってくるような画面になっています。オルセー美術館は、自然光と人工の光に照らされて動く群衆を描いたこの作品を、初期印象派の傑作のひとつに位置づけています。

描かれた場所やモデルについては、《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の解説記事で詳しく紹介しています。

2. 肌を「肌色」ではなく、たくさんの色で描いた

ルノワール《陽光のなかの裸婦》1876年頃 オルセー美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)》1876年頃、オルセー美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)》/1876年頃/油彩・カンヴァス/81×65cm/オルセー美術館蔵

人の肌を描くとき、ふつうは1色の「肌色」を思い浮かべます。ルノワールは、肌を1色では塗りませんでした。1876年の第2回印象派展に出品されたこの裸婦では、木陰で光を受ける体の上に、青や緑、紫がかった影と、黄色やばら色の光が並べて置かれています。

屋外では、肌は周りの木の葉や空の色を映し込みます。ルノワールはその見え方を、そのまま色として画面にのせました。肌が柔らかく、温かく見えるのは、「肌色」に見える部分が、実際には何色もの絵具の重なりでできているからです。この「色で肌をつくる」感覚は、のちに画風を変えてからも最後まで失われませんでした。

3. 日常の幸福な瞬間を、絵画の主役にした

ルノワールが描いたのは、神話や歴史上の大事件ではなく、日曜日のダンス、川辺のランチ、ピアノの練習、家族との時間でした。19世紀後半のパリでは、人々が郊外の川辺やダンスホールで休日を楽しむ新しい暮らしが広がっていました。ルノワールは、その「ふだんの楽しさ」を大きなカンヴァスで本格的に描いた画家です。

ロンドンのナショナル・ギャラリーで2026年10月から開かれる大規模展「Renoir and Love」の共同キュレーター、クリストファー・リオペルは、ルノワールは同時代の誰よりも、愛や友情のくだけた姿を近代生活の鍵として描き留めることに打ち込んだ、と語っています(ナショナル・ギャラリーのプレスリリース)。ルノワールの絵が「幸福」に見えるのは、人物が美しいからだけではなく、人と人のあいだに流れる親しい空気まで描いているからです。

4. 印象派にとどまらず、画風を大きく変えた

1881年から翌年にかけてイタリアを旅したルノワールは、ローマのヴィラ・ファルネジーナでラファエロのフレスコ画に、ナポリで古代ローマの壁画に強い感銘を受けました(ロンドン・ナショナル・ギャラリーの作品解説による)。

ヴィラ・ファルネジーナのガラテアの間 ラファエロ《ガラテアの勝利》 ローマ
ヴィラ・ファルネジーナ(ローマ)の「ガラテアの間」。右側の壁画がラファエロ《ガラテアの勝利》(16世紀初め)。ルノワールが感銘を受けたヴィラ・ファルネジーナのフレスコ画のひとつです。Public domain, via Wikimedia Commons.

帰国後のルノワールは、光に溶けるような筆づかいから離れ、輪郭線をはっきり引き、人物を彫刻のように量感のある形でまとめる描き方を試みます。同じ解説によれば、彼は古典美術には自分の作品に欠けていた「純粋さと壮大さ」があると考え、とくにアングルの素描に強く惹かれていました。

印象派の中心にいながら、自分の出発点を疑い、描き方を組み替えた。ルノワールが「印象派の画家」という枠だけでは語りきれないのは、このためです。画風がどう変わったかは、後半の「ルノワールの画風はどう変わった?」で詳しく整理します。

5. 晩年まで、人物の生命感を描き続けた

ルノワール《浴女たち》1918-1919年 オルセー美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《浴女たち》1918-1919年、オルセー美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《浴女たち》/1918-1919年/油彩・カンヴァス/110×160cm/オルセー美術館蔵

1890年代からリウマチに苦しんだルノワールは、晩年を南仏カーニュ=シュル=メールで過ごし、体の自由がきかなくなっても筆を置きませんでした。亡くなる直前に描いた《浴女たち》を、オルセー美術館は「ルノワールの絵画的遺言」と呼んでいます。

地中海の光の中で、ばら色の肌をした女性たちがゆったりと横たわっています。オルセー美術館によれば、ルノワールが敬愛したティツィアーノやルーベンスの裸婦を思わせる作品で、体の痛みを抱えながらも描く歓びを失わなかったことを伝えています。最後の作品が、いちばん明るく温かいという点に、ルノワールという画家の芯があります。1923年、息子たちがこの作品をフランス国家に寄贈しました。

ルノワールを知るなら、まず見たい代表作3選

ここでは、ルノワールの画業を理解するうえで外せない3点に絞って紹介します。印象派の絶頂期、転換の直前、円熟期と、時期の違う作品を選びました。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

モンマルトルの丘にあった野外ダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の、日曜の午後を描いた作品です(画像は前半の「理由1」に掲載)。1877年の第3回印象派展で発表されました。

見るべきは、人物の顔よりも光の斑点です。手前のテーブルの人々から奥で踊る人々まで、同じ木漏れ日が画面全体をつないでいます。サイズは縦131.5cm、横176.5cm。風俗画としては大きな画面に、パリの人々の休日を描き込んだところに、ルノワールの野心が表れています。

この作品は画家ギュスターヴ・カイユボットが購入し、1896年の遺贈によってフランス国家のものとなりました。現在はオルセー美術館の顔ともいえる1点です。オルセー美術館そのものについてはオルセー美術館の完全ガイド記事もどうぞ。

《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年

ルノワール《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年 フィリップス・コレクション蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年、フィリップス・コレクション蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《舟遊びをする人々の昼食》/1880-1881年/油彩・カンヴァス/130.2×175.6cm/フィリップス・コレクション蔵

パリ郊外シャトゥーのセーヌ河畔にあったレストラン「メゾン・フルネーズ」のテラスで、友人たちが食後のひとときを過ごしています。子犬をあやす女性は、のちにルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴ。ほかにも画家カイユボットや女優エレン・アンドレなど、ルノワールの友人たちが描かれています(フィリップス・コレクションによる)。

ルノワールらしさが出ているのは、テーブルの上のグラスや果物のきらめき、縞模様の日よけを通した光、そして一人ひとり違う表情と視線の交わりです。印象派の明るさを保ちながら、人物の形は《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》よりしっかりしてきています。この直後のイタリア旅行で始まる画風の転換を、先取りしている作品ともいえます。

1923年に収集家ダンカン・フィリップスが購入し、現在もワシントンD.C.のフィリップス・コレクションを代表する作品です。

《ピアノを弾く少女たち》1892年

ルノワール《ピアノを弾く少女たち》1892年 オルセー美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ピアノを弾く少女たち》1892年、オルセー美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《ピアノを弾く少女たち》/1892年/油彩・カンヴァス/116×90cm/オルセー美術館蔵

裕福な家庭の室内で、2人の少女が1冊の楽譜をのぞき込んでいます。1892年、フランス政府がこの作品をルノワール本人から買い上げ、リュクサンブール美術館に収めました。オルセー美術館によれば、詩人マラルメや美術行政官ロジェ・マルクスが、印象派の作品を国の美術館に入れようと動いた結果です。

少女の髪や頬、カーテンの赤、ピアノの黒が、柔らかな筆づかいでひとつの空気にまとめられています。1880年代の硬い描き方を経て、しっかりした素描とのびやかな色彩が再び溶け合った、円熟期の始まりを告げる作品です。ルノワールはこの構図で、完成作をほかに3点、さらに油彩スケッチとパステルも描いています。ひとつのモチーフにここまで集中するのは、彼には珍しいことでした。

ルノワールには、まだまだ重要な作品がある

この3点だけでは、ルノワールの全体像はまだ見えてきません。モネと並んで描いた《ラ・グルヌイエール》(1869年)、第1回印象派展に出品した《桟敷席》(1874年)、画風の転換がはっきり表れた対作品《都会のダンス》《田舎のダンス》(1883年)、古典への傾倒が頂点に達した《大水浴図》(1884〜87年)、そして最晩年の《浴女たち》(1918〜19年)。どれも、ルノワールの変化を知るうえで欠かせない作品です。

個別の作品をもっと詳しく知りたい方は、まず《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の徹底解説から読むのがおすすめです。

ルノワールの生涯|作品理解につながる7つの転機

1854年 13歳で磁器の絵付け職人に

仕立屋の家に生まれ、3歳で家族とともにパリへ移ったルノワールは、13歳で磁器の絵付けの見習いになります。クラーク美術館の年譜によれば、1854年からレヴィ兄弟の工房で約4年間働きました。白い磁器の上に、明るく澄んだ色で花や人物を描く仕事です。その後は扇子の装飾なども手がけながら、画家を目指していきます。

1861年 グレールの画塾で、モネたちと出会う

1860年からルーヴル美術館で名画の模写を始めたルノワールは、1861年にシャルル・グレールの画塾に入ります。ここで出会ったのが、クロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレー。のちに印象派の中核となる仲間たちです。

1869年 モネと並んで《ラ・グルヌイエール》を描く

1869年の夏、ルノワールとモネは、パリ近郊のセーヌ河畔の行楽地ラ・グルヌイエールにイーゼルを並べ、同じ景色を描きました。スウェーデン国立美術館は、このときの作品を「最初の本格的な印象派絵画」の例と位置づけています。2枚の比較は、後半の「モネとルノワールは何が違う?」で紹介します。翌1870年に普仏戦争が始まると、ルノワールは騎兵隊に従軍しました。

1874年 第1回印象派展に参加

1874年、ルノワールはモネ、ピサロ、ドガらとともに、官展(サロン)から独立したグループ展を開きます。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会で、ルノワールは劇場の桟敷席の男女を描いた《桟敷席》(コートールド美術館蔵)を出品しました。1876年の第2回、1877年の第3回にも参加しています。

ただ、グループ展は酷評にさらされ、生活は苦しいままでした。支えになったのが、出版業者ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻のようなパトロンです。夫妻は1875年の印象派の作品売り立てでルノワールの絵を購入し、その後、一家の肖像画を依頼しました。

1881〜82年 アルジェリアとイタリアへの旅

40歳前後で、ルノワールはアルジェリアとイタリアを旅します。ローマではラファエロのフレスコ画、ナポリでは古代ローマの壁画を見ました。帰国後の1883年に描いた《都会のダンス》について、オルセー美術館は、素描がより正確になり、色数を絞ったパレットが以前の躍動的な筆触と鋭い対照をなしていると解説しています。ルノワール自身、イタリアでラファエロを見たことが素描を重んじるきっかけになったと認めていました。

1890年 アリーヌとの結婚、家族を描く日々

1880年に出会ったアリーヌ・シャリゴと、1890年に正式に結婚します。長男ピエール(1885年生)、のちに映画監督となる次男ジャン(1894年生)、三男クロード(1901年生)が生まれ、家族や子どもたちは晩年まで繰り返し描かれるモチーフになりました。1892年には《ピアノを弾く少女たち》が国に買い上げられ、画家としての評価も固まっていきます。

1907〜1919年 南仏カーニュ=シュル=メールでの晩年

1890年代からリウマチに苦しんだルノワールは、療養のため南仏に滞在するようになり、1907年にカーニュ=シュル=メールの農園「レ・コレット」を購入します。1913年からは若い彫刻家リシャール・ギノの協力を得て、彫刻にも取り組みました。1915年に妻アリーヌを亡くしたあとも制作を続け、1919年12月3日、カーニュで78歳の生涯を閉じます。

レ・コレットは現在、カーニュ=シュル=メール市のルノワール美術館として公開され、画家が使ったイーゼルや車椅子などを見ることができます。

ルノワールの画風はどう変わった?

ルノワールの画風は、大きく4つの時期に分けると整理しやすくなります(年代の区切りは目安です)。

時期特徴代表作
初期(1860年代〜1870年代初め)ルーヴルでの模写やドラクロワに学び、サロン(官展)への入選を目指す。1860年代末からは仲間と戸外の光を研究《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年)
印象派の時代(1870年代〜1880年ごろ)明るい色、細かく揺れる筆触、光の斑点。都市の余暇や人々の交流を描く《桟敷席》《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《舟遊びをする人々の昼食》
古典主義への接近(1880年代)ラファエロやアングルに学び、輪郭線と量感を重視。色数を絞り、硬く端正な画面に《都会のダンス》《田舎のダンス》《大水浴図》
円熟期・晩年(1890年代〜1919年)柔らかな筆触と温かい赤・ばら色が戻る。豊かな裸婦、家族、南仏の風景《ピアノを弾く少女たち》《浴女たち》

初期:ドラクロワに学んだ色彩

国立西洋美術館が所蔵する《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年)は、同館の解説によれば、ドラクロワの《アルジェの女たち》などを下敷きにした作品です。きらびやかな衣装や装飾豊かな絨毯に、ロマン主義の巨匠ドラクロワゆずりの色彩への関心が見て取れます。ドラクロワについては《民衆を導く自由の女神》の解説記事で詳しく書いています。

印象派の時代:光の粒で人を包む

1870年代のルノワールは、モネたちと戸外で制作しながら、光を細かな色の粒としてとらえる描き方を身につけます。前半で紹介した《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》や《陽光のなかの裸婦》が、この時代の到達点です。

古典主義への接近:輪郭線のある「硬い」時代

ルノワール《大水浴図》1884-1887年 フィラデルフィア美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《大水浴図》1884-1887年、フィラデルフィア美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《大水浴図》/1884-1887年/油彩・カンヴァス/フィラデルフィア美術館蔵

フィラデルフィア美術館は、この作品の彫刻のような人物表現と、乾いた絵具を丁寧に置く描き方は、17〜18世紀フランス絵画の伝統を反映していると解説しています。ルノワールは伝統と近代絵画を両立させようと3年をかけ、多くの準備素描を重ねました。しかし完成後に新しい画風が批判され、その後は二度とひとつの作品にここまでの労力を注がなかったといいます。

変化の途中がそのまま残っている作品もあります。ロンドン・ナショナル・ギャラリーの《雨傘》は、1881年ごろに描き始め、1885年ごろに手を入れ直した作品です。画面右側の人物は印象派らしい羽のように軽い筆触、左側の人物は輪郭のはっきりした描き方で、1枚の中に画風の転換が記録されているのが分かります。

晩年:温かい赤とばら色へ

1890年代に入ると、ルノワールは硬い輪郭をゆるめ、柔らかな筆触と温かい色彩を取り戻します。ただし、印象派時代にそのまま戻ったわけではありません。古典から学んだ量感のある人体と、印象派で身につけた色彩が合わさり、《浴女たち》に見られる豊かな裸婦像へとつながっていきました。

モネとルノワールは何が違う?

モネとルノワールは、グレールの画塾で出会ってから長く友人であり、ともに印象派をつくった仲間でした。僕は入口として、モネは「光と風景と時間の変化」、ルノワールは「光の中にいる人間と、その幸福な日常」を描いた画家と覚えるのがいちばん分かりやすいと考えています。

同じ場所を描いた《ラ・グルヌイエール》

ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年 スウェーデン国立美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年、スウェーデン国立美術館(ストックホルム)蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:ルノワール《ラ・グルヌイエール》/1869年/油彩・カンヴァス/スウェーデン国立美術館蔵

モネ《ラ・グルヌイエール》1869年 メトロポリタン美術館蔵
クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年、メトロポリタン美術館蔵。CC0, via Wikimedia Commons.

作品データ:モネ《ラ・グルヌイエール》/1869年/油彩・カンヴァス/メトロポリタン美術館蔵

メトロポリタン美術館によれば、1869年の夏、2人はセーヌ河畔の行楽地ラ・グルヌイエールにイーゼルを並べました。同館は、所蔵するモネの作品が、ストックホルムにあるルノワールの作品と構図がよく似ていると解説しています。

2枚を並べると、関心の違いが見えてきます。モネの画面では、水面のさざ波が大きく横長の筆触で描かれ、画面の主役は水と光です。ルノワールの画面では、人物がより細やかに描かれ、女性たちの服の色や、人々が集まる場のにぎわいに目が向いています。

モネルノワール
主な関心光と大気、風景、時間による変化光の中にいる人間、肌、人と人の関係
得意な主題風景、水辺、庭、連作(積みわら、睡蓮など)人物、ダンスや食事の情景、子どもと家族、裸婦
光の描き方水面や空気のゆらぎを筆触で表す木漏れ日や反射光を、肌や服の上の色の斑点で表す
画風の変化印象派の探究を晩年の《睡蓮》まで深めた1880年代に古典へ接近し、晩年は量感のある裸婦へ
代表作《印象、日の出》《睡蓮》《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《浴女たち》

もっとも、モネも若いころは妻カミーユをモデルに人物画を描いていますし、ルノワールも風景画を数多く残しています。「モネ=風景、ルノワール=人物」はあくまで入口の目安です。モネの側から見た印象派については、モネが「光の画家」と呼ばれる5つの理由を解説した記事をあわせて読むと、2人の違いがより立体的に見えてきます。

ルノワールと同時代の画家たち

ルノワールが描いたクロード・モネの肖像 1875年 オルセー美術館蔵
ピエール=オーギュスト・ルノワール《クロード・モネ》1875年、オルセー美術館蔵。友人モネを描いた肖像。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《クロード・モネ》/1875年/油彩・カンヴァス/84×60.5cm/オルセー美術館蔵

  • クロード・モネ:グレールの画塾以来の友人。ルノワールは、パレットを手にしたモネや、読書するモネなど、友人の肖像を複数描いています。
  • アルフレッド・シスレー/フレデリック・バジール:グレールの画塾で出会った仲間。のちの印象派の中核を担いました。
  • カミーユ・ピサロ/エドガー・ドガ:第1回印象派展をともに立ち上げた仲間。ドガは踊り子や劇場を描き、屋外制作とは距離を取りました。ドガ《エトワール》の解説記事と比べると、同じ印象派でも関心がまったく違うことが分かります。
  • エドゥアール・マネ:印象派展には参加しなかったものの、若い画家たちが慕った先輩格の画家。マネ《フォリー・ベルジェールのバー》の解説記事もどうぞ。
  • ギュスターヴ・カイユボット:画家であり、仲間の作品を買い支えた収集家。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》は、彼の遺贈によってフランス国家のものになりました。

ルノワールが影響を受けた画家

  • ウジェーヌ・ドラクロワ:色彩豊かなロマン主義の巨匠。《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、ドラクロワの《アルジェの女たち》などを下敷きにしています。
  • ラファエロ:イタリア旅行でフレスコ画に触れ、1880年代の画風転換のきっかけになりました。
  • ドミニク・アングル:なめらかな輪郭線で知られる新古典主義の画家。ルノワールはとくにその素描を敬愛しました。
  • ティツィアーノ/ルーベンス:オルセー美術館は、晩年の《浴女たち》にこの2人の裸婦への敬愛が表れていると解説しています。

日本でルノワールを見るには?

静岡市美術館は、日本でルノワールが愛されてきた理由のひとつに、その作品を「日本の美術館で実際に観ることができる」ことを挙げています。実際、国内にはルノワール作品を所蔵する美術館が各地にあります。

ただし、所蔵していても常に展示されているとは限りません。展示替えや他館への貸し出しで見られない時期もあるので、以下は「公式サイトで所蔵が確認できる作品」として紹介します。目当ての作品がある場合は、訪問前に各館の公式サイトで最新の展示状況を確認してください。

国立西洋美術館(東京・上野)

国立西洋美術館の外観 東京・上野
国立西洋美術館の外観。東京都台東区上野公園。2023年撮影。Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons. ※本記事の作品画像とは別の、美術館外観の参考写真です。

実業家・松方幸次郎のコレクションを基礎とする美術館です。《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年)は、公式の所蔵情報によれば1921年12月に松方が画商デュラン=リュエルから購入したもの。第二次大戦後にフランス政府に接収され、1959年に寄贈返還されました。晩年の《帽子の女》(1891年)も所蔵しています。

また2027年1月11日まで、本館1階19世紀ホールで、《帽子の女》などを例に同館の保存修復の歩みを資料で振り返る特集展示が開かれています。

アーティゾン美術館(東京・京橋)

《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(1876年)を所蔵しています。パトロンだった出版業者シャルパンティエの、当時4歳の長女を描いた肖像です。同館の解説によれば、近くで見ると影の表現に青い線が使われているのが分かります。理由2で紹介した「色で描く」ルノワールを、日本で確かめられる1点です。

ポーラ美術館(神奈川・箱根)

《レースの帽子の少女》(1891年)など、ルノワールの作品を複数所蔵しています。同館は、ルノワールが衣装の質感を描くことに優れていた背景に、仕立屋とお針子を両親に持つ生い立ちがあったと解説しています。

ひろしま美術館(広島)

晩年の《パリスの審判》(1913-14年頃)のほか、彫刻家ギノとの協働で生まれたブロンズ《勝利のヴィーナス》(1913年)なども所蔵しています。晩年の「量感のあるルノワール」を知るのに適した館です。

大原美術館(岡山・倉敷)

倉敷の大原美術館は、《泉による女》(1914年)を所蔵しています。

このほかにも、国内各地の美術館や企業コレクションにルノワールの作品があります。

2026〜2027年に見られるルノワール関連の展覧会

会期・料金・休館日は変更されることがあります。訪問前に必ず各展覧会の公式サイトで最新情報を確認してください。

わたしたちのルノワール(全国5会場を巡回)

国内の美術館が所蔵するルノワール作品を、梅原龍三郎や山下新太郎のように彼を敬愛した日本の洋画家の作品とともに紹介し、ルノワールが日本で親しまれる画家になるまでの道のりをたどる展覧会です(特別展公式サイト静岡市美術館による)。ポーラ美術館が特別協力しています。

会場会期メモ
熊本県立美術館2026年7月18日(土)〜9月13日(日)開館50周年記念展として開催
静岡市美術館2026年9月22日(火・祝)〜11月15日(日)料金・休館日は公式サイトで確認
大分県立美術館2026年11月23日(月・祝)〜2027年1月17日(日)一般1,600円(割引料金などの詳細は公式サイトで確認)
東京富士美術館2027年1月26日(火)〜3月28日(日)10:00〜17:00、月曜休館(祝日の場合は開館し翌火曜休館)
岡山県立美術館2027年4月6日(火)〜5月30日(日)詳細は公式サイトで確認

オルセー美術館所蔵 いまを生きる歓び(東京都美術館)

会期は2026年11月14日(土)〜2027年3月28日(日)、会場は東京都美術館の企画展示室です。展覧会公式サイトの作品紹介には、ルノワールの《読書する人》(1874-76年)と、理由5で紹介した晩年の《浴女たち》(1918-19年)が掲載されています。

東京都美術館の公式情報では、観覧料は一般2,400円(前売2,200円)。休室日は月曜日のほか、11月24日(火)、12月22日(火)〜2027年1月3日(日)、1月12日(火)、3月23日(火)です。ゴッホ《星月夜》やミレー《落穂拾い》も来日する大型展なので、見どころはオルセー美術館展2026の見どころ・チケット解説記事にまとめています。

海外では「Renoir and Love」展が巡回中

2026年春にパリのオルセー美術館で開かれた「Renoir and Love」展が、ロンドンのナショナル・ギャラリー(2026年10月3日〜2027年1月31日)、ボストン美術館(2027年2月20日〜6月13日)へと巡回します(ナショナル・ギャラリー発表)。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》も出品される、1865〜1885年のルノワールに焦点を当てた展覧会です。

ルノワールについてよくある質問

ルノワールは何がすごい?

光を浴びた人物の肌や服を、たくさんの色の斑点で描き、日常の幸福な場面を大きな絵画の主題にしたことです。さらに、印象派の中心にいながら古典絵画を学び直して画風を変え、晩年まで人物の生命感を描き続けた点も、ルノワールならではの特徴です。

ルノワールは印象派?

はい。1874年の第1回から1877年の第3回まで印象派展に参加した中心メンバーです。ただし1880年代にはラファエロやアングルに学んで輪郭線を重視する画風へ移り、「印象派」の枠から大きく踏み出していきました。

ルノワールとモネの違いは?

大まかにいえば、モネは光そのものや風景・時間の変化を追い、ルノワールは光の中にいる人間や人と人の関係を描きました。1869年には同じ場所で《ラ・グルヌイエール》を並んで描いており、比べると関心の違いがよく分かります。

ルノワールはなぜ人物を多く描いた?

人と人が集い、語り合い、愛し合う姿への関心が、ルノワールの画業を貫いていたことが大きな理由です。仕立屋とお針子の両親のもとで育ち、衣装の質感を描くことに長けていたこと、パトロンから肖像画の依頼を受けていたことも、人物画が多い理由として挙げられます。

ルノワールの一番有名な作品は?

一般には《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(オルセー美術館)がよく挙げられます。《舟遊びをする人々の昼食》(フィリップス・コレクション)も並んで有名です。

日本でルノワールを見ることはできる?

できます。国立西洋美術館、アーティゾン美術館、ポーラ美術館、ひろしま美術館、大原美術館などが所蔵しています。展示替えがあるため、訪問前に各館の公式サイトで確認してください。

まとめ

ルノワールは、「幸福な絵を描いた画家」というだけの存在ではありません。木漏れ日の中の人物を光の斑点で描き、肌を何色もの絵具でつくり、パリの人々の休日を大画面の主役にしました。そのうえで、印象派の成功に満足せず、ラファエロやアングルに学び直して画風を組み替え、晩年は痛みを抱えながら温かい裸婦を描き続けています。

光、人物、色彩、そして変わり続ける勇気。そのすべてが1枚の中で「幸福」として感じられることが、ルノワールがいまも世界中で見られ続けている理由です。

次は、代表作を1点ずつ詳しく見ていくのがおすすめです。まずは《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の徹底解説から。ルノワールの長年の友人だったモネについては、モネの解説記事で紹介しています。

目次