ゴッホには《星月夜》と呼ばれる絵が2枚あります。
1枚は、空が渦を巻き、糸杉が炎のように立ち上がる、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の《星月夜》。もう1枚が、この記事で扱う1888年の作品です。オルセー美術館が所蔵していて、原題は同じ「La Nuit étoilée(星月夜)」。区別するために、日本では一般に《ローヌ川の星月夜》と呼ばれています。
渦巻く空のほうが圧倒的に有名です。でも僕は、静かなこちらの一枚のほうを何度も見返しています。理由は、この絵に描かれている光が2種類あるからです。空に散る星の光と、対岸に灯るガス灯の光。自然の光と人間が作った光が、同じ画面に並んで置かれている。
しかもこの絵については、ゴッホ本人が弟テオへの手紙に、自分が見た色を細かく書き残しています。何を描こうとしていたのかを、本人の言葉で追える珍しい作品です。そして2026年11月、この絵が東京にやってきます。
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《ローヌ川の星月夜》1888年|まず作品データから

作品データ:《ローヌ川の星月夜》/1888年9月/油彩・カンヴァス/73×92cm/オルセー美術館蔵(パリ、RF 1975 19)
| 作品名 | 《ローヌ川の星月夜》(原題 La Nuit étoilée) |
| 作者 | フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890) |
| 制作年 | 1888年9月 |
| 制作時の年齢 | 35歳 |
| 描かれた場所 | フランス・アルル、ローヌ川沿い |
| 技法・サイズ | 油彩・カンヴァス/73×92cm |
| 所蔵 | オルセー美術館(パリ) |
| 日本での公開 | 2026年11月14日〜2027年3月28日/東京都美術館 |
ゴッホが「夜」を描くまでには半年かかっている
ゴッホが南フランスのアルルに着いたのは1888年2月です。ここで《ひまわり》《黄色い家》《アルルの寝室》といった代表作が次々に生まれました。
そのアルル時代を通して、ゴッホが何度も手紙に書いていたテーマがあります。星空を描きたい、という話です。オルセー美術館の解説によれば、その気持ちは1888年の春にはすでに手紙に現れていて、実際に形になったのが同じ年の9月でした。
つまりこの絵は、夜道を歩いていてきれいだったから描いた、という種類の作品ではありません。半年ちかく温め続けたテーマに、ようやく手をつけた一枚です。
先に描かれたのは《夜のカフェテラス》
同じ1888年9月、ゴッホはもう一枚の有名な夜景を描いています。《夜のカフェテラス》です。オルセー美術館は、ゴッホがまずこちらで夜空に取り組み、そのあと《ローヌ川の星月夜》へ進んだ、という順序で説明しています。

2枚を並べると、ゴッホの関心がどこにあったかが見えてきます。《夜のカフェテラス》では、店先のランプの黄色と夜空の青が正面からぶつかっています。《ローヌ川の星月夜》では、その対比がもっと広い画面に移され、光が川に落ちて伸びていきます。同じ月に、同じ問題を2回解いているような関係です。
《夜のカフェテラス》のほうはゴッホ《夜のカフェテラス》徹底解説|黒のない夜と本物の星空・カフェの今で詳しく書いています。
見どころ①|星の光と、ガス灯の光が同じ画面にある
この絵をただの美しい星空として見ると、半分しか見ていないことになります。画面の中でいちばん明るいのは、星ではありません。対岸にずらりと並んだガス灯です。
ゴッホ自身、この2種類の光を対比として意識していました。1888年9月29日ごろにテオへ宛てた手紙(書簡691)で、彼はこう書いています。青緑色の空を背にして、おおぐま座が緑とピンクにきらめいている。その控えめな淡さが、ガス灯の強い金色と対照をなしている、と。
星の光は淡く、ガス灯の光は強い。ゴッホはその強弱の差を、そのまま絵に置いています。
ここが、この絵をロマンチックな夜景以上のものにしています。19世紀後半のヨーロッパでは、ガス灯が都市の夜を変えつつありました。人類が数万年ずっと見上げてきた星の光と、まだ数十年しか経っていない人工の光。《ローヌ川の星月夜》は、その2つが並んで写り込んだ、近代都市の夜の記録でもあります。
しかもこの絵では、人工の光のほうが勝っています。地上の光が明るすぎて、星がかすんで見える。いまの言葉でいえば光害です。ゴッホはそれを批判しているわけではなく、目の前にあったものをそのまま描いています。
見どころ②|川面に伸びる、長い光の帯
この絵を見て、最初に目が行くのはおそらくここです。対岸のガス灯が、ローヌ川の水面に縦長に映り込んでいます。
写真のような正確な反射ではありません。絵具のストロークが縦方向に重ねられていて、光が水の上で揺れながら伸びているように見えます。実際の水面の反射は、こんなに長くまっすぐには伸びません。ゴッホは見たものを整理して、光の動きだけを取り出しています。
色の指定も手紙に残っています。書簡691でゴッホは、空は青緑、水はロイヤルブルー、地面は藤色、街は青と紫、ガス灯は黄色で、その反射は赤みを帯びた金から緑がかったブロンズへ変化していく、と説明しています。
絵を見ながらこの一文を読むと、対応関係がそのまま追えます。ゴッホがどれだけ色を言葉で捉えていたかが分かる部分です。
見どころ③|ゴッホが手紙に書いた「おおぐま座」
画面上部に、大きめの星がいくつか並んでいます。ここについても、ゴッホ本人の言葉があります。書簡691に出てくる「Grande Ourse」、つまりおおぐま座です。北斗七星を含む、あの星の並びを指しています。
ゴッホが実際の夜空を見上げながら、そこにある星座を意識して描いていたことは、この一語から分かります。
ただし、絵に描かれた星の配置が実際のおおぐま座と一致するのかどうかは、また別の話です。天文学の側から検証した議論もありますが、位置関係や見えている方角については見解が分かれています。ゴッホは天体観測の記録を作ろうとしたわけではなく、見たものを出発点にして構図と色を組み直しています。
この記事では、ゴッホが手紙におおぐま座と書いたところまでを事実として扱い、星図としての正確さについては断定しません。
見どころ④|右下に立つ、二人の人物
広い夜空と水面に目を取られていると見落としますが、画面の右下、手前の岸辺に二人の人物が描かれています。オルセー美術館は、この二人を「恋人たち(a couple of lovers)」と説明しています。誰をモデルにしたのかは分かっていません。
この二人がいるかいないかで、絵の温度がかなり変わります。試しに、画面の右下を指で隠して全体を見てみてください。人がいなくなった途端、同じ夜景がずっと冷たく、無人の風景に見えてきます。
巨大な夜空と川があって、その手前に小さな二人が立っている。オルセー美術館も、この二人の存在が、翌年のMoMA版に比べて穏やかな雰囲気を作っていると書いています。画面全体の何十分の一しかない人物が、絵の意味を決めているところです。
見どころ⑤|夜なのに、黒がほとんど使われていない
もう一度、画面全体を見てみてください。夜の絵なのに、黒く塗られた場所がほとんどありません。
オルセー美術館の解説では、この作品に使われた青として、プルシアンブルー、ウルトラマリン、コバルトブルーの3つが挙げられています。プルシアンブルーは18世紀に作られた深い青の顔料、ウルトラマリンは紫に寄った鮮やかな青、コバルトブルーはやや明るく澄んだ青です。似た青を3種類使い分けて、夜の暗さを表しています。
そこへ黄色とオレンジが置かれます。青とオレンジは色相環で正反対にある補色の関係で、隣り合うと互いをより強く見せます。ゴッホは夜を暗くするのではなく、青を強くするために黄色を置いたということです。
写真のような夜景ではないのに、光の感じだけがやけに本物に見える。その理由の多くは、この色の組み立て方にあります。
ゴッホは本当に夜の屋外で描いたのか
この絵についてよく語られるのが、夜の屋外で描いたという話です。ここは手紙にはっきり書かれています。
書簡691でゴッホは、30号のカンヴァスのスケッチを同封したうえで、ようやく描けた星空であり、実際に夜、ガス灯の下で描いたものだ、と説明しています。アトリエで記憶から再構成したのではなく、暗いローヌ川のほとりにカンヴァスを持ち出して、その場で描いた。ここまでが手紙が語っている内容です。
なお、ゴッホが帽子にろうそくを立てて夜の制作をした、という話が広く知られていますが、これは後年に伝えられたもので、この手紙には書かれていません。この記事では、手紙が言っている「夜、ガス灯の下で描いた」までを事実として扱います。
同じ手紙には、宗教という言葉を使いたくなるほどの切実な必要があって、だから夜に外へ出て星を描くのだ、という有名な一節も出てきます。星空はゴッホにとって、モチーフの一つというより、外へ出ていく理由でした。
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『ゴッホの手紙 絵と魂の日記』H・アンナ・スー 編/千足伸行 監訳(西村書店)
2012年7月刊/319ページ/ISBN 9784890136780
ゴッホの手紙 絵と魂の日記
[H.アンナ・スー 編/千足伸行 監訳]
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MoMAの《星月夜》とどう違うのか
ここで、混同されがちなもう1枚と並べて整理しておきます。

| 《ローヌ川の星月夜》 | 《星月夜》 | |
|---|---|---|
| 制作年 | 1888年9月 | 1889年6月 |
| 制作地 | アルル | サン=レミ |
| ゴッホの状況 | ゴーギャンとの共同生活を準備中 | 療養院に滞在中 |
| 所蔵 | オルセー美術館(パリ) | ニューヨーク近代美術館(MoMA) |
| 描かれたもの | ローヌ川、対岸の街、ガス灯 | 村、糸杉、渦を巻く空 |
| 制作方法 | 夜、屋外で制作 | 記憶と想像による再構成を含む |
| 人物 | 手前に二人 | ほぼ描かれていない |
いちばん大きな違いは、現実との距離です。《ローヌ川の星月夜》は目の前の夜景から出発しています。翌年の《星月夜》は、療養院の窓から見えた風景をもとにしながら、渦巻く空も糸杉の大きさも、ゴッホの内側で作り直されています。
この2枚のあいだは、わずか9か月です。ゴッホの耳の事件が起きたのは1888年12月、アルル時代の終わりでした。同じ画家の夜空が、1年足らずでここまで変わっています。
MoMA版についてはゴッホ《星月夜》徹底解説|渦巻く夜空の意味・糸杉と村の謎・どこで見られるかで、耳の事件についてはゴッホの耳と死の真相|なぜ左耳を切ったのか、自殺説・他殺説を検証でまとめています。
《ローヌ川の星月夜》はどこで見られる?
通常は、パリのオルセー美術館にあります。19世紀後半から20世紀初頭のフランス美術を集めた美術館で、もとは1900年のパリ万博に合わせて建てられた鉄道駅でした。ゴッホのコレクションもここにまとまっています。

そして2026年、この絵が日本にやってきます。東京都美術館の開館100周年記念展「オルセー美術館所蔵 いまを生きる歓び」に出品され、会期は2026年11月14日から2027年3月28日まで。公式には16年ぶりの来日と発表されています。ミレー《落穂拾い》やゴーガン《アレアレア》を含む約110点が並びます。
展覧会では作品名が《星月夜》と表記されます。MoMAの《星月夜》が来るわけではないので、そこは間違えないようにしてください。会期・チケット・章構成はオルセー美術館展2026「いまを生きる歓び」見どころ・チケットを徹底解説にまとめてあります。
日本国内でゴッホの作品を見られる場所は、日本でゴッホが見られる美術館12選で整理しています。
実物の前に立ったら、この順番で見る
この絵は、画像で見るのと実物とで印象が変わる度合いが大きい作品です。理由は、水面の光が絵具の厚みで作られているからです。
僕なら、こう見ます。
- まず5メートルほど離れて全体を見る。青の中から水面の黄色い光が浮き上がってくる
- 近づいて、水面のストロークだけを見る。光に見えていたものが、縦に並んだ絵具の筆跡に変わる
- もう一度離れる。筆跡が再び光に戻る
- 右下の二人を確認する
- 最後に空のおおぐま座と、対岸のガス灯の列を見比べる
2番と3番の往復が、この絵の見どころの核心です。印刷物やスマートフォンの画面では、この切り替わりが起きません。
よくある質問
《ローヌ川の星月夜》と《星月夜》は同じ作品ですか?
別の作品です。《ローヌ川の星月夜》は1888年にアルルで描かれ、オルセー美術館の所蔵。渦巻く空で知られる《星月夜》は1889年にサン=レミで描かれ、ニューヨーク近代美術館の所蔵です。原題はどちらも「星月夜」にあたるため、日本では前者を《ローヌ川の星月夜》と呼び分けています。
描かれている星は何座ですか?
ゴッホは1888年9月29日ごろのテオ宛の手紙(書簡691)で、おおぐま座に触れています。北斗七星を含む星座です。ただし絵の星の配置が実際の星空と厳密に一致するかについては議論があり、この記事では断定していません。
手前の二人は誰ですか?
モデルは分かっていません。オルセー美術館は「恋人たち」と説明していて、この二人がいることで、翌年のMoMA版より穏やかな印象が生まれているとしています。
この絵は日本で見られますか?
2026年11月14日から2027年3月28日まで、東京都美術館の「オルセー美術館所蔵 いまを生きる歓び」で公開されます。16年ぶりの来日と発表されています。それ以外の時期はパリのオルセー美術館で展示されています。
ゴッホは何歳のときにこの絵を描いたのですか?
35歳です。1853年3月生まれで、制作は1888年9月。亡くなる2年ほど前にあたります。
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まとめ|ゴッホが夜の中に見つけた色
《ローヌ川の星月夜》は、静かな絵に見えて、中身はかなり密度が高い一枚です。
青緑の空、ロイヤルブルーの川、対岸に並ぶガス灯の黄色、水面を走る金色の帯、淡く光るおおぐま座、そして手前に立つ二人。ゴッホは半年かけてこのテーマを温め、夜のローヌ川にカンヴァスを持ち出して、実際にガス灯の下でこれを描きました。そのときに見た色を、手紙にひとつずつ書き残しています。
夜は暗い、という当たり前の見方をやめたところから、この絵は始まっています。だから130年以上たっても、この夜景は色あせて見えません。
2026年11月、この絵が東京にやってきます。画像で何度も見た人ほど、実物の青と光の差に驚くはずです。
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