ゴッホは1890年7月29日、37歳で亡くなりました。現在は、自ら胸を銃で撃ったことによる死だったとする見方が研究上の主流です。一方、その約1年半前の1888年12月には、自ら左耳を切る「耳切り事件」を起こしています。
なぜ耳を切ったのかは完全には解明されていませんが、ゴーガンとの関係悪化をきっかけにした深刻な精神的危機、孤独、飲酒など、複数の要因が重なった可能性が指摘されています。
この記事では、「ゴッホはなぜ耳を切ったのか」「死因は本当に自殺だったのか」を、ファン・ゴッホ美術館の公式解説や近年の研究をもとに整理します。
ゴッホの耳と死因|まず結論
ゴッホの死因は?
1890年7月27日に胸を銃で撃ち、2日後の7月29日に亡くなりました。現在は自殺とする見方が主流です。
ゴッホはなぜ耳を切った?
直接的な理由は確定していません。1888年12月23日、ゴーガンとの関係が破綻しかけた夜に深刻な精神的危機に陥り、自ら左耳を切ったというのが一般的な見方です。
切った耳はどっち?
左耳です。近年確認された医師フェリックス・レイの資料から、耳たぶだけではなく左耳の大部分を切断した可能性が高いと考えられています。
ゴッホは何歳で死んだ?
37歳です。1890年7月27日に胸を銃で撃ち、2日後の7月29日に亡くなりました。1853年3月30日生まれなので、37歳4か月ほどでした。
ゴッホは他殺された?
少年による誤射説がありますが、ファン・ゴッホ美術館の研究者らは根拠が十分ではないと反論しており、現在も自殺説が主流です。
ゴッホはなぜ耳を切ったのか|1888年12月の耳切り事件
舞台は南仏アルル、「黄色い家」での共同生活
1888年、35歳のゴッホは南フランスのアルルに移り、この黄色い壁の家を借りました。ここで彼が考えていたのは、画家たちが共同で暮らし、支え合いながら制作する「画家の共同体」をつくることです。その最初の同居人として招いたのが、ポール・ゴーガンでした。
ポール・ゴーギャンは、のちにタヒチへ渡り、《アレアレア》などを描いた画家です。株式仲買人から画家に転身した経歴を持ち、理論を重んじるタイプでした。一方のゴッホは、絵の具を厚く盛り上げ、感じたままに描くタイプです。ゴッホ美術館の解説によれば、二人は1888年の秋、この黄色い家でともに暮らし、制作していました。ただ、性格も絵に対する考え方も異なる二人の共同生活は、しだいに緊張をはらんでいきました。
1888年12月23日、耳切り事件は何が起きた?
クリスマス直前の1888年12月、その事件は起きます。ゴッホ美術館の公式解説によれば、二人は激しく口論し、その最中、発作を起こしたゴッホは混乱のなかで自分の左耳を切り落としました。彼はその耳を紙に包み、近くの娼館にいた女性に手渡します。翌朝、警察が家にいたゴッホを見つけ、病院へ運びました。
ゴッホ自身は、あとになってこの夜のことをほとんど思い出せなかったといいます。その約一か月後にはふたたび発作を起こし、以降も発作を繰り返すようになりました。上の《耳に包帯をした自画像》は、事件からまもない1889年に、包帯を巻いた自分の姿を描いた作品です。
「なぜ切ったのか」については、ゴーガンとの決裂、発作、飲酒、弟テオの婚約による孤独など、複数の説が語られてきました。ただしゴッホ美術館は、発作の原因について「多くの説はあるが、すべてを説明できる診断はまだ見つかっていない」としています。
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ゴッホが切ったのは耳たぶだけ?耳のほぼ全部だったという新説
長いあいだ、切ったのは耳たぶの一部だと考えられてきました。しかし2016年、イギリスの研究者バーナデット・マーフィーが著書『Van Gogh’s Ear(ゴッホの耳)』で、この通説を見直す資料を紹介します。アルルの病院でゴッホを手当てした医師フェリックス・レイが描いたスケッチ——耳の付け根に切開線が入り、耳たぶの端を残してほぼ耳全体が切り落とされた様子を示す図——が、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校のバンクロフト図書館で見つかったのです。これにもとづき、切ったのは「耳たぶ」ではなく「耳のほぼ全部」だったとする説が示されました。
この医師フェリックス・レイは、当時まだ研修医でした。ゴッホは礼としてこの肖像画を贈っていますが、レイ本人はあまり気に入らなかったと伝えられています。この絵は現在、モスクワのプーシキン美術館が所蔵しています。
マーフィーは、耳を受け取った女性についても新しい見方を示しました。従来は「娼婦」とされてきましたが、彼女の調査では、娼館で下働きをしていた「ガブリエル」という若い女性だった可能性が高いとされています。もっとも、これらは研究者による新説であり、ゴッホ美術館の公式解説は現在も従来どおりの記述です。この点はまだ確定していないと考えておくのがよいでしょう。
サン=レミの療養院、そして最後の地オーヴェールへ
耳切り事件のあとも、ゴッホは発作を繰り返しました。1889年5月、彼は自らの意思でサン=レミにあるサン=ポール・ド・モーゾル療養院に入り、翌1890年5月まで過ごします。この療養院にいた時期に、《星月夜》をはじめとする作品が制作されました。体調が不安定ななかでも、制作のペースは落ちていません。
1890年5月、療養院を出たゴッホは、パリ近郊の村オーヴェール=シュル=オワーズに移ります。ここで彼を診たのが、芸術に理解のあるガシェ医師でした。ゴッホはこの村で数多くの作品を描きましたが、ここが彼の最期の地になります。
ゴッホの死因とは|1890年7月、オーヴェールでの最期
ゴッホ美術館の公式解説によれば、1890年7月27日、オーヴェール近くの野原で、ゴッホはリボルバー拳銃で自分の胸を撃ちました。彼は宿に戻り、二日後の7月29日、駆けつけた弟テオに看取られて亡くなります。37歳でした。画家として活動した期間は、およそ10年です。
上の《カラスのいる麦畑》は、この最期と結びつけて「絶筆」として紹介されることが多い作品です。金色の麦畑の上に、暗い青空とカラスの群れが描かれています。ただし、これが本当に最後の作品かどうかは研究者のあいだで見解が分かれており、近年では別の作品(《木の根》)を最後とする説も出ています。
最晩年の作品を日本で見られる機会が、この秋あります。亡くなる前月の1890年6月にオーヴェールで描かれた《ポプラ林の中の二人》(シンシナティ美術館蔵)が、10月10日から上野の森美術館で開かれるシンシナティ美術館展に出品されます。どれが最後の作品なのかは、ゴッホの最後の作品は?で詳しく整理しています。
自殺説と他殺説|現在有力なのはどちら?
ゴッホの死は、長く自殺として語られてきました。ゴッホ美術館も、サン=レミ入院後の手紙に死に触れる言葉が増えていくこと、弟テオへの経済的な負担、将来への不安などを挙げ、自ら命を絶ったとする立場をとっています。彼の作品がようやく評価され始めた時期の出来事でした。
一方、2011年、アメリカの作家スティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、評伝『Van Gogh: The Life』で別の見方を示しました。ゴッホは自殺ではなく、地元の少年たち(とくにルネ・スクレタンという16歳の少年)に誤って撃たれたのではないか、という説です。銃の入手経路が不明なこと、画材が現場から見つかっていないことなどを根拠としています。
しかし、ファン・ゴッホ美術館の研究者ルイ・ファン・ティルボルフとテイオ・メーデンドルプは、2013年に美術専門誌『バーリントン・マガジン』で、この説に反論しました。2人は、ゴッホの手紙や周囲の証言、銃撃時の状況などを検証し、少年による誤射説には十分な根拠がなく、ゴッホが自ら胸を撃った可能性が高いと結論づけています。
ゴッホ晩年の心境は、弟テオらに宛てた手紙から読み取れます。彼自身の言葉を追ってみたい方には、書簡を訳した一冊があります。
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まとめ|ゴッホの死因と耳切り事件で分かっていること
ゴッホが左耳を切った直接的な理由は、現在も完全には解明されていません。ゴーガンとの関係悪化をきっかけにした深刻な精神的危機、孤独、飲酒など、複数の要因が重なった可能性があります。
一方、1890年の死については、少年による誤射説もありますが、現在はゴッホが自ら胸を撃ったとする見方が研究上の主流です。ゴッホは37歳で亡くなり、画家として活動したのはおよそ10年間でした。
耳切り事件や最期だけを見ると、ゴッホは「悲劇の画家」として語られがちです。ただ、その間にも《星月夜》《ひまわり》など数多くの作品を残しています。事件のあとに何を描いたのかまで見ると、ゴッホの10年間がより立体的に見えてきます。
ゴッホ晩年の作品を実物で見るなら、10月10日から上野の森美術館で始まるシンシナティ美術館展2026で《ポプラ林の中の二人》が見られます。耳切り事件と同じ1888年にアルルで描かれた《ローヌ川の星月夜》は、11月14日から東京都美術館のオルセー美術館展2026で来日します。

