ハイソのためのアート?承認欲求との関係
アートはステータス「ではない」と言い切るより、こう言ったほうが正直かもしれない。
アートはステータスとして見られることもあるし、同時に、自分と向き合うきっかけにもなる。
「アートが好きです」と口にすると、どこかで「ハイソっぽい」「教養がありそう」と受け取られることがある。そういう空気があるのは、たぶん事実だと思う。だからこそ、アートを楽しむ気持ちの中に、ほんの少し「よく見られたい」が混ざってしまうのも、そこまで不思議なことではない。
*「ハイソ」とは、もともと “ハイ・ソサエティ(high society)”=上流社会 の略。上品ぶっている/お金持ちっぽい/おしゃれで教養ある感じなど、ちょっと「庶民とは違う世界」の雰囲気を表した俗語的な言い方
美術館に通っている。
有名な展覧会はだいたいチェックしている。
アートの本を読み、SNSで感想を発信している。
こういう営みは、どれも素敵だと思う。誰かに見せるためじゃなく、ただ好きでやっている人もたくさんいる。ただ同時に、「アートを知っている自分」「語れる自分」を通して、少し安心したくなる瞬間がある人もいるかもしれない。
それは“間違い”というより、自然な心の動きに近い。
人は誰だって、どこかで「私はこれでいい」と思える拠り所が欲しいからだ。
ただ、もしその安心が大きくなりすぎると、作品そのものがくれる発見よりも、「どう見えるか」「どう評価されるか」が前に出てきてしまうことがある。
では、なぜそうなりやすいのか。
そこには個人の性格というより、アートが置かれてきた歴史や、社会の空気が関係している部分がある。
アートが「ハイソ」に見えやすい、歴史の名残
アートは長い間、王や貴族、教会、資本家といった「力のある側」と一緒に語られてきた。宮殿の天井画も、豪邸にかけられた油絵も、その背景には権力や富があった。
その記憶が文化として残っている以上、「アート=上品/お金持ちの世界」という連想が起きやすいのは、ある意味当然でもある。
高額での売買が大きなインパクト
ニュースで話題になるのは、作品の中身というより「いくらで落札されたか」という金額のほうだったりする。
高級ホテルや百貨店など、特別な場所でアートに出会うことも多い。そう考えると、日常で触れる“アートの断片”が「高価」「希少」と結びつきやすいのも無理はない。
かくいう筆者も幼少の頃は絵が得意でよく賞をもらっていたのだが、周りの友人や大人から、「ゆくゆくは有名になり高く売れるようになるかもだから1枚もらっておきたい(冗談)」などの言葉をかけられたことは1度や2度ではない。言った側に悪意がなくても、そうした言葉が「価値=値段」という見え方を強めてしまうことはある。そして自分自身も、褒められることが嬉しくて、どこか「評価されるため」に描いていた部分があった気がする。
つまり、「アート=ハイソ」という連想は、誰かの性格の問題というより、長い時間をかけて育ってきた「見方のクセ」でもある。
「教養の証明」としてのアート
学校のテストやクイズ、テレビ番組、本やSNSでは、アートが「知識」として扱われる場面も多い。
この絵を描いた画家は誰か。どの時代か。どの流派か。どこに所蔵されているか。
もちろん、そうした知識は作品を見る助けになる。画家が生きた時代や技法を知ることで、それまで気づかなかったものが見えてくることもある。
「知っていること」が教養に見えるとき
ただ、知識には答え合わせができる。知っているか、知らないか。説明できるか、できないか。そこには比較しやすさがある。
そのため、ときに「アートをどれだけ知っているか=どれだけ教養があるか」という物差しが生まれる。作品を前にして何を感じたかより、作者名や美術史の知識を語れることのほうが、「わかっている人」に見えやすいからだ。
大人になれば、仕事や資格、SNSなど、私たちはさまざまな場面で評価される。そんな世界に長くいると、アートのように「自分がどう感じたか」でしか答えられないものに向き合うときにも、つい外側に正解を探したくなる。
問題は知識を持つことではない。知識が自分の感覚を深めるためのものではなく、自分をよく見せるための答えになってしまうことだ。そうなると、作品を見て最初に生まれた小さな違和感や驚きが、見えにくくなってしまう。
「センスの証明」が欲しくなる空気
もう一つ、見逃せないのが、私たちが日常の中で「ラベル・記号」から人を判断する場面が少なくないことだ。
学歴、肩書き、年収、住んでいるエリア、持ち物、行きつけの店。そうした情報から、つい相手の人物像まで想像してしまうことがある。
この社会の中で、「アートに詳しい」「美術館によく行く」というのは、かなり魅力的なラベルの方ではないか。文化的で、感性が豊かで、どこか品があるように見える。いわば、「センスの証明」のような役割なのかもしれない。
日々の仕事や生活の中で、「自分は何が好きなのか」「自分らしさとは何だろう」と考えることは誰にでもある。そのとき、趣味や知識が自分を説明する大切な一部になることもある。
「休日は美術館へ行く」「好きな画家がいる」ということも、その一つだ。もちろん、それ自体はとても自然なことだ。ただ、「アートが好きだから見る」のか、「アートが好きな自分でいたいから見る」のか、ときどき自分でも境界がわからなくなることがある。
「アートが好きな自分」は、その人の本音かもしれないし、同時に「そうでありたい自分」を少し含んでいることもある。けれど、それはアートに限った話ではない。好きな服や音楽、旅先など、私たちはさまざまなものを通して自分を形づくっている。
問題は、その境界が自分でもわからなくなっていくことだ。いつの間にか、「アートと向き合っている自分」よりも、「アートを知っている自分」の方を大事にしてしまう。
「正解のある世界」と「承認」に慣れすぎた私たち
さらに根っこまで降りていくと、私たちは日常の多くを「評価できる世界」で過ごしていることに気づく。
学校ではテストに正解があり、仕事ではKPIや評価基準があり、数字や結果で振り返る場面も多い。
そうした考え方は社会を動かすうえで必要だ。一方で、そこに慣れているほど、「自分の感覚で決めていい」あいまいな領域に戸惑うこともある。アートには、誰にでも当てはまる一つの答えが用意されているわけではないからだ。
「正解らしきもの」を探し始める
誰も正解がわからない。その不安から逃げるために、人は「正解らしきもの」を探し始める。
学芸員の解説、批評家の言葉、パンフレットの文章、SNSでバズっている感想。そこに寄りかかっていれば、とりあえず外さない。少なくとも、「わからない」と正直に言って馬鹿にされるリスクからは逃れられる。
こうして、「作品を見る」という行為は、いつの間にか「正しそうな感想を探してなぞる」行為にすり替わっていく。目は絵を見ているようでいて、実はずっと他人の視線と評価を見ている。
「自分の感覚で決めていい」あいまいな世界
アートは、その「自分の感覚で決めていい」あいまいな世界の代表だ。最初に感じたことへ、いつも根拠やエビデンスを用意する必要はない。
何を好きになるかも、何に違和感を覚えるかも、誰も点数をつけてくれない。それは自由であると同時に、ときに少し心細い。
ステータス鑑賞の内側で起きていること
「ハイソな趣味」「教養の証明」「センスの証明」としてアートを見ることを、単純に悪いことだと決めつける必要はないと思う。誰かに認められたい気持ちは、多かれ少なかれ誰の中にもある。もちろん、自分自身にも。
「よくわからない」は、少し落ち着かない
作品の前で「よくわからない」と感じるのは、意外と落ち着かない。だから私たちは、画家の経歴や評価、学芸員や批評家の言葉に寄りかかりたくなることがある。
知識を得ること自体が悪いわけではない。むしろ、知ることで作品はもっと面白くなる。ただ、その知識によって、自分が最初に感じた小さな違和感まで消してしまうとしたら、少しもったいない。
作品から受ける揺さぶりは、「正しいかどうか」「褒められるかどうか」とは別のところで起きる。
なぜか目が離せない。
理由もなくイライラする。
見ていると苦しくなる。
時間を忘れて眺めてしまう。
そうした説明のつかない反応には、その人自身の感情や記憶、価値観が表れる。すぐに言葉へ変換できなくてもいい。まずは「自分はこう反応した」と気づくこと。そこから、作品との関係が始まるのだと思う。
「よくわからない」を許容する
では、ステータス鑑賞から一歩離れて、アートを「自分と向き合う装置」として使うにはどうしたらいいのか。特別な修行が必要なわけではない。ただ、いくつか「やめること」がある。
ひとつは、「すぐに意味を求めること」をやめることだ。
・この絵は何を象徴しているのか。
・このモチーフの裏にはどんな社会批判があるのか。
そういう問いは、興味が湧いてきたら後からいくらでも掘ればいい。けれど最初の一歩としては、「意味を理解する前に、自分に何が起きているか」を眺める方がずっと大事だ、と思う。自然の風景を鑑賞する時と似ている。
作品の前に立ったとき、自分の視線がどこに吸い寄せられたのか。身体が前に出たのか、むしろ引いたのか。心のどこかが、ざわついたのか、静まったのか。言葉にならないその変化を、ただ「ある」と認めることから始める。
もうひとつは、「正しい感想を言おうとすること」をやめることだ。
「すごくよかった」と言うべきだろうか。
「色彩が素晴らしい」と言っておけば無難だろうか。
そんな計算をいったん横に置いて、「よくわからない」「ちょっと苦手」「見ていたら泣きそうになった」といった生の感想を自分の中だけでも許す。誰かに共有する必要はない。自分だけのメモでいい。
そのとき、「好き/嫌い/どちらでもない」という、乱暴なほど大雑把なラベルを自分のためだけに貼ってみるのもいい。理由は言葉にならなくてもかまわない。言葉にならないまま残る感覚は、じわじわ時間をかけて、自分の中の何かと結びついていく。
そうして後から、「なぜあの絵はあんなに気になったんだろう」と振り返るとき、初めて知識や解説が役に立つ。画家の生涯や時代背景、技法の特徴を知って、「だからか」と腑に落ちることもあるし、「それでも自分はこう感じる」と、他人の説明と自分の感覚を並べて眺めることもできる。
大事なのは、知識が自分の反応を補強するためにあることであって、正解を先に与えてしまうためにあるのではない、ということだ。
アートは「自分の輪郭」を少しだけはっきりさせる
歳を重ねるほど、自分が何に癒やされ、何に傷つき、何に怒り、何に救われるかは変わっていく。若いころにはまったく響かなかった作品が、ある日突然胸に刺さることもあるし、かつて大好きだった絵が、今見ると不思議なくらい何も感じさせなくなることもある。
その変化は、言葉にすると「好みが変わった」で片づけられてしまう。でも、もう少し丁寧に見てみると、それは人生の輪郭が少しずつ描き変わっていくプロセスでもある。
失恋を経験したあとに見る肖像画。
子どもが生まれたあとに見る家族の絵。
親を亡くしたあとに見る風景画。
同じ作品でも、自分の状態によって全く違う顔を見せてくる。そのとき、アートは教養の飾りではなく、自分の現在地を測る装置として働いている。
だからこそ、「アートを知っている自分」や「アートに詳しい自分」を守るために、作品との間に壁を作ってしまうのは、あまりにももったいない。壁を作っている限り、作品は本気で向き合ってくれない。痛くも痒くもない。その代わり、自分の感情も深くは動かない。
ほんの少しだけ心の隙間を開ける。
「わからない」と感じる自分を許す。
「これは嫌いだ」と思ってしまう自分を否定しない。
「うまく説明できないけど、ずっと気になる」を大事にする。
その小さな許しを積み重ねることで、アートはゆっくりとステータスから解放され、静かな装置として機能し始める。作品はもはや、「ハイソな趣味」の証明でも、「教養のテスト」でもない。ただ、あなたの輪郭を少しずつ浮かび上がらせるための鏡になる。
ARTZUKANでは、「アート(芸術)とは何か」についても、「人はなぜつくり、なぜ見るのか」という視点から考えています。

アートは、自分の感覚に戻る場所
アートをどう楽しむかは、本来ひとりひとりの自由だ。作品について詳しく調べてもいいし、美術館を巡ってもいい。好きな作品を誰かに語ることだって楽しい。
ただ、その前に一度だけ、自分が何を感じたのかを確かめてみる。
「よくわからない」でもいい。
「好きじゃない」でもいい。
理由は説明できないけれど、「なぜか気になる」でもいい。
そこには、誰かに採点されるためではない、自分だけの感覚がある。
アートは、教養を証明するためだけのものでも、センスの良さを見せるためだけのものでもない。
作品を見ながら、自分でも気づいていなかった感情や記憶に出会う。そうして少しずつ、「自分は何を美しいと思うのか」「何に心を動かされる人間なのか」が見えてくる。
もしかすると、それこそがアートを見る面白さなのだと思う。

