青い大波が、いまにも船を呑み込もうと爪を立てる。その向こうに、小さな富士山がぽつんと立っている。葛飾北斎《神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)》は、たぶん世界でいちばん有名な日本の絵です。Tシャツにも絵文字にもなっているので、「絵そのものはよく知っているけれど、実は何が描かれているのかは知らない」という人も多いはず。この記事では、波の形や小さな富士の意味、船に乗っている人たち、青い色の秘密まで、僕なりに順を追って解説していきます。最後に「本物はどこで見られるのか」もまとめました。
《神奈川沖浪裏》とはどんな作品?
《神奈川沖浪裏》は、北斎が70歳ごろに手がけた版画のシリーズ「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の一枚です。冨嶽三十六景は、いろいろな場所から見た富士山を描いた連作で、版元(出版社にあたる存在)の永寿堂(えいじゅどう)から、1831年の正月に合わせて売り出されました。当初は36枚の予定でしたが、人気が高く、あとから10枚が追加されて、最終的に全46枚になっています。
タイトルの「神奈川沖」は、いまの神奈川県のあたりの海のこと。江戸へ向かう海の上で、大波にもまれる船を描いた一枚、という意味になります。肉筆で一点だけ描かれた絵ではなく、木版画なので、同じ版から何百枚も摺(す)られました。だからこそ、これだけ世界中に広まったとも言えます。
作品データ:《神奈川沖浪裏》/1830〜32年頃/錦絵(多色摺の木版画)/25.7×37.9cm/メトロポリタン美術館蔵。※木版画のため摺りごとにサイズや色みに幅があります。
「錦絵(にしきえ)」というのは、何色もの版木を重ねて摺る、多色刷りの浮世絵版画のこと。1枚の絵の中で色ごとに版木を替えて摺り重ねるので、当時としては世界でもトップクラスに進んだ印刷技術でした。
見どころ① 生き物のように立ち上がる波
いちばんの見どころは、やっぱり画面左に大きくそびえる波です。波頭(なみがしら)が細かく枝分かれして、まるで白い爪や指のように内側へ丸まっている。写真で波を止めたわけでもないのに、崩れ落ちる直前の一瞬をぴたりと捉えているのがすごいところです。北斎は若いころから波を繰り返し描いていて、この《神奈川沖浪裏》はその集大成とも言われます。よく見ると、波の白い泡の形と、奥に見える富士山の形が、どこか呼応しているようにも感じられます。
おもしろいのが、北斎の時代にはまだ写真がなかったということ。北斎はカメラを使ったのではなく、自分の目で本物の波をじっくり観察して、この爪のような形を描いたと考えられています。じつは海洋物理の研究でも、砕け落ちる波(プランジング・ブレーカー=崩れながら前へ巻き込む波)を間近で見ると、波頭が細かく枝分かれして水滴になって飛び散り、《神奈川沖浪裏》そっくりの爪のような形が現れることが指摘されています。オックスフォード大学が2019年に、水槽で巨大な「フリーク波(突発的に生まれる一発の大波)」を再現したときも、その姿はこの大波によく似ていました。北斎の観察眼の鋭さが、あらためて裏づけられたわけです。
見どころ② 大波の奥に小さく描かれた富士山
この絵は「富士山の絵」なのに、富士山はずいぶん小さく描かれています。手前の大波が画面を覆うように立ち上がり、その谷間の奥に、雪をかぶった富士がちょこんと収まっている。近くの波を大きく、遠くの富士を小さく描くことで、逆に富士の距離感と静けさが引き立ちます。荒れ狂う波と、どっしり動かない富士。この対比こそが、北斎の狙いだったのだと思います。
ではこの絵は、どこから富士山を眺めているのでしょうか。タイトルの「神奈川」は神奈川県のことではなく、東海道で3番目の宿場町だった神奈川宿——現在の横浜市神奈川区にあたります。その近くには神奈川湊(かながわみなと)という港があり、そこから見ると富士山はちょうどほぼ真西、直線でおよそ80km先にあります。つまり江戸湾(東京湾)の海の上から、西を向いて富士を見ている構図ということになります。
ただし絵の中には、陸地がまったく描かれていません。太田記念美術館の日野原健司さんは、そこから「神奈川湊のすぐ沖ではなく、南の浦賀あたりから江戸へ北上する押送船が、湾内のかなり沖に出たあたりではないか」と推測しています。下の図で、位置関係をざっくり示してみました。
もうひとつ大事なのが、視点の「高さ」です。この絵は崖の上から見下ろしているのではなく、波の谷間に浮かぶ別の船から見ているような、海面すれすれの高さに読者を置いています。目線が海と同じ高さだから、手前の波は視界を覆うほど大きくなり、80km先の富士山は波の谷の向こうに小さく沈む。もし高いところから見下ろす構図だったら、波は平たく見えて、富士はもっと大きく描かれていたはずです。
では北斎自身がこの光景を目撃したのかというと、そうではありません。制作時の北斎は70歳前後で、江戸で仕事をしていました。そもそも江戸湾の中でこれほどの大波が立つこと自体が現実的ではなく、これは長年の観察から組み立てられた絵だと考えられています。とはいえ机上の空想というわけでもなく、北斎は47歳頃に木更津まで旅した際、帰りに船に乗った可能性が指摘されています。さらに文化初年(1804〜07年)頃には、横浜の本牧岬あたりの海と大波を描いた《賀奈川沖本杢之図》(すみだ北斎美術館蔵)という、《神奈川沖浪裏》の原型ともいえる作品を残しています。低い視点から海と波を描くという発想を、北斎は25年以上前から温めていたわけですね。
見どころ③ 波に呑まれそうな3艘の船
波にもまれているのは、3艘(そう)の細長い船です。これは「押送船(おしおくりぶね)」と呼ばれた、鮮魚などを江戸へ急いで運ぶ快速の船だと考えられています。乗っている人たちは、体を低くして必死に船にしがみついている。自然の圧倒的な力の前で、人間がいかに小さいか——そんなふうにも読み取れます。ただ北斎は悲劇として描いたというより、荒波と船と富士を、一枚の画面にドラマチックに組み上げてみせた、という感じがします。
見どころ④ 「ベロ藍」が生んだ深い青
この絵の印象を決めているのは、なんといっても鮮やかな青です。ここに使われているのは「ベロ藍(あい)」と呼ばれた青の顔料。ヨーロッパで生まれた化学顔料プルシアンブルーのことで、「ベルリン藍」がなまってベロ藍と呼ばれました。当時、輸入されて版画に使えるようになったばかりの、いわば最新色です。
メトロポリタン美術館の科学調査によると、摺師(すりし)たちはこのベロ藍を単純に使ったのではなく、昔からある藍(インディゴ)と混ぜたり、同じ場所に二度重ねて摺ったりして、深い青と明るい青を作り分けていたそうです。波の色に奥行きと動きが生まれているのは、そうした職人技のおかげでもあります。北斎の絵は、彼一人ではなく、彫師や摺師との共同作業で完成していたわけですね。(参考:メトロポリタン美術館の解説)
実際に波のふところを拡大してみると、その効果がよく分かります。白い泡のきわは明るい青、内側へいくほど沈んだ濃紺。境目がくっきり切り替わるのではなく、青の濃さが層になって重なっています。これが二度摺りの跡です。
「冨嶽三十六景」の中の一枚として
《神奈川沖浪裏》は単独でも有名ですが、もともとは富士山を描いた連作の一枚。同じシリーズには、赤く染まった富士を大胆に描いた《凱風快晴(がいふうかいせい)》——通称「赤富士」——のような名作もあります。荒波ごしの富士と、朝焼けにそまる富士。同じ山を、まったく違う表情で見せてくれるのが、このシリーズのおもしろさです。北斎という画家をもっと知りたくなったら、葛飾北斎とは?代表作・特徴をやさしく解説した記事もあわせてどうぞ。
作品データ:《凱風快晴》/1830〜32年頃/錦絵(多色摺の木版画)/およそ24.4×35.6cm/メトロポリタン美術館蔵。
なぜ世界中で愛されるようになったのか
19世紀後半、日本の浮世絵はヨーロッパへ大量に渡り、画家たちに衝撃を与えました。平らな色面、大胆な構図、思い切った切り取り方——西洋絵画にはなかった発想が、当時の芸術家を刺激したのです。こうした日本美術への熱狂は「ジャポニスム」と呼ばれ、印象派の画家たちにも大きな影響を与えました(この流れは印象派とは?の記事でも触れています)。
モネは自宅に多くの浮世絵を集めていましたし、作曲家のドビュッシーは交響詩《海》の初版楽譜の表紙に、この《神奈川沖浪裏》をもとにした図像を使いました。絵画だけでなく音楽にまで波が広がっていったわけです。一枚の版画がここまで世界に浸透した例は、そう多くありません。
どこで見られる?
《神奈川沖浪裏》は木版画なので、同じ版から摺られた「本物」が世界中の美術館に収蔵されています。海外ではメトロポリタン美術館(ニューヨーク)やボストン美術館、大英博物館など、日本国内では、北斎が生まれ育った墨田区にある「すみだ北斎美術館」や、太田記念美術館(東京・原宿)などが冨嶽三十六景を所蔵しています。
ただし注意したいのが、浮世絵は光に弱いということ。色あせを防ぐため、絵画のように一年中飾りっぱなしにはできず、期間を区切って展示されるのがふつうです。「行けば必ず実物が見られる」とは限らないので、出かける前に各館の公式サイトで、いま《神奈川沖浪裏》が展示されているかを確認するのがおすすめです。すみだ北斎美術館の公式サイト(hokusai-museum.jp)などで、開催中の展示をチェックしてみてください。
もっと深く知りたい人へ(関連書籍)
北斎の生涯や作風をまるごと知りたい人には、『もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品』(永田生慈 著/東京美術)が入門書として読みやすいです。図版が豊富で、90年におよぶ北斎の画業を追えます。※価格・在庫は変動する場合があります。最新情報は各商品ページをご確認ください。
もっと知りたい葛飾北斎 改訂版
[永田生慈]
価格・在庫状況はリンク先でご確認ください
まとめ
《神奈川沖浪裏》は、ただの「かっこいい波の絵」ではありません。崩れ落ちる一瞬の波、奥で静かに構える富士、必死に船にしがみつく人々、そして最新色ベロ藍と職人技が生んだ深い青——いくつもの要素が、たった一枚の版画にぎゅっと詰め込まれています。次にこの絵を目にしたときは、ぜひ波頭の爪の形や、小さな富士の位置に目をこらしてみてください。きっと、これまでとは違って見えてくるはずです。そして機会があれば、光の下で本物の摺りを見に行ってみてくださいね。

