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《東海道五十三次》とは?全55図を画像で一覧|なぜ55枚?有名な図・見どころ・どこで見られるか

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東海道五拾三次之内 箱根 湖水図 歌川広重

江戸の日本橋を夜明けに発ち、箱根の山を越え、雪の蒲原、夕立の庄野を抜けて、京都の三条大橋へ。歌川広重(1797〜1858)の《東海道五十三次》は、東海道の旅を55枚の版画でたどるシリーズです。

最初に答えを書いておくと、《東海道五十三次》とは、江戸と京都を結ぶ東海道の53の宿場に、出発点の日本橋と終点の京都を加えた全55図の風景版画です。天保4年(1833)頃から版元の保永堂などが出版し、30代の広重を一気に人気絵師へ押し上げました。正式なシリーズ名は「東海道五拾三次之内」で、版元の名から「保永堂版」とも呼ばれます。

この記事では、なぜ「五十三次」なのに55枚あるのか、東海道とはどんな道だったのか、どうやって生まれたのか、どこを見ればいいのか、そして全55図を画像つきで宿場順に並べて整理します。2026年9月29日から東京国立博物館で始まる広重展の1期(〜10月25日)では、このシリーズが全点並びます。その予習にも使ってください。

目次

《東海道五十三次》とは?30秒でわかる基本情報

  • 作品名:東海道五拾三次之内(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)。通称「東海道五十三次」「保永堂版東海道」
  • 作者:歌川広重(1797〜1858)
  • 制作・出版:天保4年(1833)頃から。天保5年(1834)頃に55図が完結したとされる
  • 版元:保永堂(竹内孫八)。はじめは仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)との共同出版
  • 枚数:全55図(53宿+日本橋+京都)
  • 判型・技法:大判錦絵(木版多色摺)、ほぼすべて横長の画面。1枚は約26×37cm
  • 代表的な図:《日本橋 朝之景》《箱根 湖水図》《蒲原 夜之雪》《庄野 白雨》など

「錦絵(にしきえ)」とは、何枚もの版木を使って多色で摺った浮世絵版画のことです。浮世絵は絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師が色を摺る分業でつくられました。《東海道五十三次》も広重ひとりではなく、版元・彫師・摺師を含めたチームの仕事です。

浮世絵そのものの仕組みについては浮世絵とは?歴史・特徴・作り方の解説で詳しく書いています。

なぜ「五十三次」なのに55枚?作品数の答え

「五十三次」の「次」は、宿場(しゅくば)のことです。宿場とは、街道沿いに置かれた、旅人が泊まったり馬や人足を乗り継いだりするための町を指します。江戸時代の東海道には、品川から大津まで53の宿場がありました。

広重はこの53宿に、出発点の江戸・日本橋と、終点の京都・三条大橋を加えました。だから「五十三次」は53枚ではなく、53+2=55枚になります。和泉市久保惣記念美術館や静岡市東海道広重美術館など、国内の美術館もこの55図を「揃い」として紹介しています。

ただし「東海道五十三次の作品数」を調べると、55以外の数字も出てきます。理由は2つあります。

理由1:同じ宿場に「異版」がある

保永堂版には、同じ宿場を描いた別バージョン(異版)が存在する図があります。和泉市久保惣記念美術館の解説では、日本橋・品川・川崎・神奈川・戸塚・小田原の6図に異版があるとされています。たとえば日本橋には、魚売りと大名行列が行き交う《朝之景》のほかに、画面構成の異なる《行列振出》があります。

浮世絵は売れれば何度も摺り直されるため、版木の彫り直しや人物の差し替えが起きます。どの版を1点と数えるかで、合計の枚数が変わってくるわけです。

理由2:広重は東海道を20種類以上描いている

もうひとつの理由は、広重が東海道シリーズを何度も描いていることです。保永堂版が大ヒットしたあと、広重は生涯で20種類を超える東海道のシリーズを手がけました。一般に「東海道五十三次」といえば最初の保永堂版を指しますが、ほかのシリーズまで含めると数百図になります。この違いは後半の「広重のほかの東海道」の章で整理します。

東海道とはどんな道だった?

東海道は、江戸の日本橋を起点とする「五街道」のひとつで、京都の三条大橋までを結んだ幹線道路です。国土交通省関東地方整備局の解説によると、日本橋から三条大橋までは約492km。徒歩ではおおむね13日から15日前後かかったとされています。広重が描いた55図の場所を地図に置くと、下のようになります。

東海道五十三次の宿場の位置を示した地図。江戸・日本橋から京都・三条大橋まで、55図の場所を赤い点で表示
東海道五十三次の宿場と、保永堂版55図の場所。赤い点の番号は図の順番で、1が江戸・日本橋、55が京都・三条大橋。宮(熱田)から桑名までは「七里の渡し」で海路を渡った。タップで拡大できます。地図データ:Natural Earth(パブリックドメイン)、宿場の位置:Wikidata(CC0)をもとにARTZUKAN作成。

道中には、東海道最大の難所とされた箱根の峠、橋がなく人足に担がれて渡った大井川、船で伊勢湾を渡る宮(熱田)から桑名への「七里の渡し」などがありました。広重の55図には、こうした峠越えや川越しの場面が何度も出てきます。

江戸時代後期は、伊勢参りなどの旅が庶民にも広がった時代です。1802年に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が刊行されてベストセラーになったように、東海道の旅は人々の憧れでした。実際には行けない人も、広重の絵を1枚ずつめくることで、日本橋から京都までの旅を追体験できたわけです。

歌川広重《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》
歌川広重《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》天保4〜5年(1833〜34)頃、メトロポリタン美術館所蔵の摺り。CC0, via Wikimedia Commons.

シリーズの第1図《日本橋 朝之景》は、夜明けの日本橋を大名行列が渡りはじめる場面です。橋の手前では魚売りたちが荷をかついで歩いています。ここから55枚の旅が始まります。この図の細部は歌川広重 代表作12選で1枚ずつ解説しています。

《東海道五十三次》はどうやって生まれた?

北斎《冨嶽三十六景》のあとに登場した

1830年代の初め、葛飾北斎の《冨嶽三十六景》が評判となり、名所を描いた風景版画が浮世絵の新しい売れ筋になっていました。それまで美人画や役者絵で目立った成功を収められなかった広重は、この流れのなかで風景画に取り組み、天保4年(1833)頃に《東海道五十三次》の刊行が始まります。

日動美術館の展覧会解説によると、シリーズははじめ保永堂と仙鶴堂の共同出版で、のちに保永堂の単独出版となり、天保5年(1834)に55図が完結しました。保永堂は天保4年頃に興ったばかりの新しい版元でした。

広重は本当に東海道を旅したのか?

《東海道五十三次》には、「広重が実際に東海道を旅して描いた」という話がよく添えられます。天保3年(1832)の夏、幕府が朝廷へ馬を献上する「八朔御馬進献(はっさくおうましんけん)」の一行に加わって京都へ上り、その道中の写生をもとに描いた、という説です。明治期の浮世絵研究家・飯島虚心が紹介したもので、シリーズ中の《藤川 棒鼻ノ図》に献上の馬が描かれていることも、この説の根拠として挙げられてきました。

歌川広重《東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図》
歌川広重《東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

一方で、この説には疑問も出ています。山形県酒田市の本間美術館は、定火消同心という下級武士だった広重が幕府の公式行列に同行するのは無理があると指摘しています。そのうえで、近年は、多くの図が寛政9年(1797)刊行の旅の案内書『東海道名所図会』や道中記を参考にしていると指摘されている、と紹介しています。

『東海道名所図会』池鯉鮒の図
『東海道名所図会』(寛政9年/1797年刊)より池鯉鮒の図。早稲田大学図書館所蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.
歌川広重《東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市》
歌川広重《東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

上は『東海道名所図会』の池鯉鮒(ちりゅう、現在の愛知県知立市)の挿絵、下は保永堂版の《池鯉鮒 首夏馬市》です。Wikimedia Commonsでは、この挿絵が保永堂版の下敷きになった図の例として整理されています。並べてみると、広重が既存の図をそのまま写したのではなく、画面の切り取り方や空気感を自分の絵に作り替えていることがわかります。

今のところ、「実際に旅をした」説と「名所図会などの資料をもとに描いた」説の両方があり、決着はついていません。僕はこの点を、広重の評価を下げる話だとは考えていません。仮に元になる図があったとしても、そこに雨を降らせ、雪を積もらせ、旅人を走らせて「その場にいるような絵」に仕立て直したのは広重です。

《東海道五十三次》の見どころ

天気と時刻が1枚ごとに違う

55図を並べてまず気づくのは、天気と時間帯の多さです。日本橋の夜明け、三島の朝霧、沼津の黄昏、蒲原の夜の雪、庄野の夕立、亀山の雪晴れ。題名に天気や時刻が書かれている図も少なくありません。

それまでの名所絵は「そこに何があるか」を伝えるものが中心でした。広重はそこに「その場所が、いつ、どんな空気だったか」を持ち込みました。東京国立博物館も今回の展覧会で、時刻や天候の移り変わりを伝える巧みな工夫を広重の特徴として挙げています。

主役は名所より、そこを通る人びと

広重の東海道には、必ずといっていいほど人が描かれています。大名行列、荷を運ぶ人足、駕籠かき、馬子、宿場で客を引く女性、茶店で休む旅人。画面の中の人物はたいてい小さく、風景のなかを動いています。

見る人は、その小さな旅人の誰かに自分を重ねて絵を見ることになります。東京国立博物館の展覧会解説が、土地に暮らす人びとを画面に自然に溶け込ませた点を広重の魅力として紹介しているのも、この部分です。

ぼかし摺りと藍色の空

広重の空は、上から下へ色が薄くなっていく「ぼかし摺り」で表されています。版木に含ませる絵具の量を摺師が調整してつくる技法です。夜の場面では空の上部を暗く、夕方の場面では地平線近くを赤くと、ぼかしの色と位置で時刻が表現されています。

空や水に使われた鮮やかな青は、「ベロ藍」と呼ばれる輸入の顔料です。ベルリン藍を略した呼び名で、現在のプルシアンブルーにあたります。

まず見ておきたい10図

55図のなかから、シリーズの性格がよくわかる10図を宿場の順に紹介します。《日本橋》《箱根》《蒲原》《庄野》の4図は代表作記事でも詳しく扱っているので、ここでは短めにしています。

《日本橋 朝之景》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》
歌川広重《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

旅の出発点。夜明けの空は上部だけ藍でぼかされ、光がまだ地面まで届いていない時間帯です。公用の大名行列と、庶民の朝の仕事が同じ画面に並びます。

《箱根 湖水図》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 箱根 湖水図》
歌川広重《東海道五拾三次之内 箱根 湖水図》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

東海道最大の箱根の難所。切り立った山肌が赤・緑・青・黄土で塗り分けられ、ほとんど色面の構成のように見えます。画面の左下に小さな大名行列、奥に芦ノ湖と富士山。山を大きく、人を小さく描くことで、越えなければならない峠の険しさが伝わります。

《三島 朝霧》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 三島 朝霧》
歌川広重《東海道五拾三次之内 三島 朝霧》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

箱根を越えた先の三島宿。朝霧のなかを、駕籠や馬に乗った旅人が進んでいきます。手前の人物ははっきり描かれ、奥の鳥居や木々は輪郭だけのシルエットになっています。色を減らし、遠くのものほど淡くすることで、霧の深さを表した1枚です。

《蒲原 夜之雪》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪》
歌川広重《東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

シリーズでもっとも評価の高い1枚のひとつ。深い雪の夜、背を丸めた旅人が集落の坂を歩いています。蒲原(現在の静岡市清水区)は雪の少ない土地で、広重がなぜここを大雪の夜として描いたのかははっきりしていません。実景の記録というより、旅の情景として「雪」を選んだと考えられています。

《由井 薩埵嶺》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺》
歌川広重《東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺》天保4〜5年(1833〜34)頃、江戸東京博物館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

由井(由比)は宿場町そのものではなく、宿場の先にある薩埵峠(さったとうげ)の崖道を描いた図です。崖の上から身を乗り出して景色を眺める旅人の向こうに、駿河湾と富士山が広がります。宿場の図で宿場を描かないという選び方にも、広重の自由さが出ています。

《御油 旅人留女》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 御油 旅人留女》
歌川広重《東海道五拾三次之内 御油 旅人留女》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

夕暮れの宿場で、客引きの女性たちが旅人の荷物や首元をつかんで宿へ引き込もうとしています。旅の滑稽な一面を描いた図です。和泉市久保惣記念美術館の解説によると、画面の旅籠の中には「一立斎画」「彫工治郎兵衛」といった名前が書き込まれていて、絵師だけでなく彫師の名前までわかります。浮世絵が分業でつくられていたことを示す、小さな証拠です。

《藤川 棒鼻ノ図》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図》
歌川広重《東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

「棒鼻(ぼうはな)」とは宿場の出入り口のこと。宿場の入口に、馬を連れた一行が到着する場面です。先に書いた「八朔御馬進献」の馬を描いたものとされ、広重が実際に献上の一行に同行したという説の根拠のひとつになってきた図です。

《四日市 三重川》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 四日市 三重川》
歌川広重《東海道五拾三次之内 四日市 三重川》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

強い風の日の四日市。風になびく柳と葦のなか、飛ばされた笠を追いかける旅人と、合羽を押さえて橋を渡る旅人が描かれています。風そのものは目に見えませんが、草木の傾きと人物の姿勢だけで、風の強さが伝わってきます。

《庄野 白雨》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 庄野 白雨》
歌川広重《東海道五拾三次之内 庄野 白雨》天保4〜5年(1833〜34)頃、クリーブランド美術館所蔵の摺り。CC0, via Wikimedia Commons.

「白雨(はくう)」とは夕立のこと。坂道で急な雨に襲われた人びとが、駕籠をかついだまま、笠を押さえながら駆けていきます。雨は角度の違う細い線を重ねて彫られ、背景の竹林は墨の濃淡だけで表されています。雨を「線」として描くこの表現は、のちにヨーロッパの画家たちにも強い印象を与えました。

《京師 三條大橋》天保4〜5年(1833〜34)頃

歌川広重《東海道五拾三次之内 京師 三條大橋》
歌川広重《東海道五拾三次之内 京師 三條大橋》天保4〜5年(1833〜34)頃、ボストン美術館所蔵の摺り。Public domain, via Wikimedia Commons.

55枚目、旅の終点。京都の鴨川にかかる三条大橋を、多くの人が渡っていきます。背後には東山の山並みが広がり、江戸の日本橋から続いてきた旅がここで終わります。第1図の日本橋と並べて見ると、東西2つの橋で始まり、終わる構成がよくわかります。

全55図を画像で見る(宿場順)

ここからは、保永堂版の55図すべてを宿場の順に並べます。図版はWikimedia Commonsで公開されている摺りから選び、ボストン美術館の摺りを中心に、ない図は大英博物館・東京都立中央図書館・江戸東京博物館などの摺りで補いました。所蔵先は各キャプションに記しています。同じ図でも摺りの時期や保存状態で色味が違うのはそのためです。画像をタップすると拡大して見られます。東京国立博物館の広重展1期では、このシリーズが全点展示されます。

東京都(日本橋〜品川)

所蔵先・出典:1. ボストン美術館(Commons)/2. ウィスコンシン大学(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

神奈川県(川崎〜箱根)

所蔵先・出典:3. 大英博物館(Commons)/4. ミネアポリス美術館(Commons)/5. 東京都立中央図書館(Commons)/6. ボストン美術館(Commons)/7. 大英博物館(Commons)/8. 大英博物館(Commons)/9. 大英博物館(Commons)/10. ボストン美術館(Commons)/11. ボストン美術館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

静岡県(三島〜白須賀)

所蔵先・出典:12. ボストン美術館(Commons)/13. 東京都立中央図書館(Commons)/14. ボストン美術館(Commons)/15. 大英博物館(Commons)/16. ボストン美術館(Commons)/17. 江戸東京博物館(Commons)/18. ボストン美術館(Commons)/19. ボストン美術館(Commons)/20. ボストン美術館(Commons)/21. ボストン美術館(Commons)/22. 江戸東京博物館(Commons)/23. 東京都立中央図書館(Commons)/24. ボストン美術館(Commons)/25. ボストン美術館(Commons)/26. ボストン美術館(Commons)/27. ボストン美術館(Commons)/28. ボストン美術館(Commons)/29. ボストン美術館(Commons)/30. ボストン美術館(Commons)/31. ボストン美術館(Commons)/32. ボストン美術館(Commons)/33. 東京都立中央図書館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

静岡県内だけで22図あり、全体の4割を占めます。富士山や大井川、駿河湾といった東海道らしい景色が集中しているためです。静岡の宿場で富士山がどう描かれているかに注目して見ていくと、北斎の《冨嶽三十六景》との違いもつかみやすくなります。

愛知県(二川〜宮)

所蔵先・出典:34. ボストン美術館(Commons)/35. ボストン美術館(Commons)/36. ボストン美術館(Commons)/37. ボストン美術館(Commons)/38. ボストン美術館(Commons)/39. 江戸東京博物館(Commons)/40. ボストン美術館(Commons)/41. ボストン美術館(Commons)/42. ボストン美術館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

三重県(桑名〜坂之下)

所蔵先・出典:43. 江戸東京博物館(Commons)/44. ボストン美術館(Commons)/45. 東京都立中央図書館(Commons)/46. 江戸東京博物館(Commons)/47. ボストン美術館(Commons)/48. ボストン美術館(Commons)/49. ボストン美術館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

滋賀県(土山〜大津)

所蔵先・出典:50. メトロポリタン美術館(Commons)/51. ボストン美術館(Commons)/52. ボストン美術館(Commons)/53. ボストン美術館(Commons)/54. ボストン美術館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

京都府(京師)

所蔵先・出典:55. ボストン美術館(Commons)。いずれもPublic domain, via Wikimedia Commons.

題名は和泉市久保惣記念美術館の所蔵品目録の表記にもとづいています。「保土ヶ谷」と「保戸ヶ谷」、「島田」と「嶋田」など、所蔵館や資料によって表記は少しずつ異なります。日本橋・品川・川崎・神奈川・戸塚・小田原の6図には、ここに掲載したものとは別の異版もあります。

広重の「ほかの東海道」――隷書・行書・狂歌入

保永堂版の成功以後、広重は版元を変えながら東海道のシリーズを描き続けました。静岡市東海道広重美術館は、広重の東海道シリーズを10種所蔵しています。よく知られているのは次の3つです。

  • 「隷書東海道」:嘉永2年(1849)頃、丸屋清次郎(寿鶴堂)から出版。題名が隷書体で書かれていることからこう呼ばれる。「丸清版」とも
  • 「行書東海道」:題名が行書体で書かれたシリーズ
  • 「狂歌入東海道」:画面に狂歌(江戸で流行した滑稽な短歌)が添えられたシリーズ

同じ宿場でも、シリーズごとに構図や季節、切り取る場面が変わります。保永堂版と隷書版を並べる展覧会が各地で開かれてきたのも、見比べるとその違いがはっきりわかるからです。「東海道五十三次」とだけ書かれた作品を見たときは、どのシリーズの1枚なのかを題名や判型で確かめると、混乱せずにすみます。

また、広重以外の絵師も東海道を題材にしました。広重より前には葛飾北斎も東海道の揃物を何種も出しており、広重の成功のあとには多くの絵師が「五十三次もの」を手がけています。同じ1797年生まれの歌川国芳には、宿場名を猫の姿や仕草にもじった戯画もあります。

北斎《冨嶽三十六景》とは何が違う?

《東海道五十三次》と並べて語られることが多いのが、北斎の《冨嶽三十六景》です。どちらも1830年代前半の風景版画ですが、つくりは大きく違います。

  • テーマ:北斎は「富士山」という1つの山を各地から見る。広重は「東海道」という1本の道を順にたどる
  • 画面の主役:北斎は波や山の大胆な形。広重は天気・時刻・旅人の動き
  • 見たときの印象:北斎は力強くデザイン的。広重は静かで、その場の空気が伝わる

北斎を「形」の人、広重を「空気」の人と整理すると、2つのシリーズの違いがつかみやすくなります。北斎の風景画については葛飾北斎の代表作10選|《神奈川沖浪裏》《凱風快晴》から晩年の肉筆画まで画像付きで解説で紹介しています。

《東海道五十三次》はどこで見られる?

浮世絵は光に弱いため、美術館でも常設展示されることはほとんどありません。55図がそろって並ぶ機会は多くないので、見たい人は展覧会の会期に合わせる必要があります。

東京国立博物館「歌川広重 江戸のベストアングル」1期(2026年9月29日〜10月25日)

東京・上野の東京国立博物館では、2026年9月29日から12月20日まで、特別展「歌川広重 江戸のベストアングル」(内山晋コレクション受贈記念)が開かれます。東博に寄贈された内山晋(1893〜1980)旧蔵の浮世絵1,025点を記念する、東博初の本格的な広重展です。

会期は3期に分かれ、期ごとに展示作品がすべて入れ替わります。《東海道五十三次》が全点並ぶのは1期(9月29日〜10月25日)だけです。2期は「木曽海道六拾九次」、3期は「名所江戸百景」が中心になります。3期の《名所江戸百景》については《名所江戸百景》とは?全120枚の数え方・構図の特徴・代表作7選で解説しています。

東京国立博物館 本館の外観
東京国立博物館 本館の外観(東京都台東区上野公園)。2024年撮影。Matthide127, CC0, via Wikimedia Commons. ※本記事の作品画像とは別の、美術館外観の参考写真です。
  • 会期:1期 2026年9月29日(火)〜10月25日(日)※展覧会全体は12月20日まで
  • 会場:東京国立博物館 本館1階 A室(東京・上野公園)
  • 開館時間:9時30分〜17時(金・土曜は20時まで。入館は閉館30分前まで)
  • 休館日:月曜日(10月12日は開館)、10月13日ほか
  • 観覧料:一般1,500円、大学生500円。高校生以下・18歳未満・70歳以上は無料(要証明書)
  • 予約:不要

会期中は、この展覧会の使用済みチケットの半券を見せると、次回の一般当日券が100円引きになります(1枚1回限り)。1期で東海道を見たあと、2期・3期も続けて回る人は半券を取っておくとよいでしょう。展覧会の構成やチケットの種類は「歌川広重 江戸のベストアングル」展の見どころ・チケット|三大シリーズ全点公開、3期で全入れ替えの東博初の本格広重展にまとめています。

静岡市東海道広重美術館(静岡市清水区由比)

東海道の宿場町・由比宿の本陣跡にある、広重の名を冠した美術館です。保永堂版のほか、隷書東海道・行書東海道などの東海道シリーズを所蔵しています。ただし、設備の入れ替え工事のため2026年6月1日から2027年3月末まで長期休館中で、2027年4月初旬に再開館の予定です(静岡市による)。

よくある質問

《東海道五十三次》は全部で何枚ですか?

最初のシリーズ(保永堂版)は全55枚です。東海道の53の宿場に、出発点の江戸・日本橋と終点の京都・三条大橋を加えています。一部の図には異版があり、広重はほかにも20種類以上の東海道シリーズを描いています。

東海道五十三次は誰が描いたのですか?

江戸時代後期の浮世絵師、歌川広重です。「安藤広重」と呼ばれることもありますが、これは本名の姓と画号を組み合わせた呼び方で、現在は「歌川広重」が一般的です。広重の生涯については歌川広重とは?何がすごい?で解説しています。

いつ描かれたのですか?

天保4年(1833)頃から出版が始まり、天保5年(1834)頃に55図が完結したとされます。資料によって「天保4〜5年」「天保4〜6年頃」など幅のある書き方がされています。

広重は実際に東海道を歩いて描いたのですか?

天保3年(1832)に幕府の馬献上の一行に加わって旅をしたという説がありますが、確かな記録はありません。『東海道名所図会』などの資料を参考にしたとする指摘もあり、研究者の間でも見方が分かれています。

いちばん有名な図はどれですか?

《蒲原 夜之雪》と《庄野 白雨》がよく挙げられます。雪と夕立という対照的な天気を描いた2図で、シリーズの中でも特に評価が高い作品です。出発点の《日本橋 朝之景》も、シリーズの顔としてよく知られています。

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まとめ

《東海道五十三次》は、歌川広重が江戸・日本橋から京都・三条大橋までの東海道を、53の宿場と起点・終点の全55図で描いた風景版画のシリーズです。天保4年(1833)頃に出版が始まり、広重を人気絵師へ押し上げました。

55図の魅力は、1枚ごとに違う天気と時刻、そして風景のなかを行き交う旅人の姿にあります。広重が実際に旅をしたかどうかはまだ決着がついていませんが、見る人に「旅をしている気分」を味わわせるという点で、このシリーズは今も成功し続けています。

2026年秋の東京国立博物館では、1期(10月25日まで)に55図がそろって並びます。日本橋から京都まで、宿場の順に歩くように見ていくと、1枚で見るときとは違う、旅の時間の流れが見えてきます。

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