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ゴッホの最後の作品は?絶筆は《木の根》が有力|《カラスのいる麦畑》説の真相と《ポプラ林の中の二人》ほか最晩年の名作

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木の根 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年

「ゴッホの最後の作品は?」と調べると、《カラスのいる麦畑》を挙げる記事がたくさん見つかります。けれども、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館がいま「おそらく最後の絵」としているのは、《木の根》という別の作品です。

この記事では、先に結論を示したうえで、《木の根》が最後の作品とされる根拠、《カラスのいる麦畑》が「絶筆」と言われてきた理由、そして《ポプラ林の中の二人》《ドービニーの庭》など、日本で見られる最晩年の作品までを整理します。

  • 最後の作品として最有力:《木の根》1890年7月(ファン・ゴッホ美術館蔵)
  • 「絶筆」として有名だが最後ではない:《カラスのいる麦畑》1890年7月(ファン・ゴッホ美術館蔵)
  • 最後の手紙にスケッチが描かれた作品:《ドービニーの庭》1890年7月(ひろしま美術館蔵)
  • 2026〜27年に日本で見られる最晩年作:《ポプラ林の中の二人》1890年6月(シンシナティ美術館蔵、シンシナティ美術館展で来日)

ゴッホが最後の日々を過ごしたのは、パリ北西の小さな村オーヴェル=シュル=オワーズです。ここでの約70日間に描かれた作品の中から、どれが「最後」なのかを見ていきます。

目次

結論:ゴッホの最後の作品は《木の根》1890年が最有力

木の根 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
《木の根》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年7月、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館蔵(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:木の根/1890年7月/油彩・カンヴァス/50.3×100.1cm/ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

ファン・ゴッホ美術館は作品解説で、《木の根》を「おそらくゴッホの最後の絵」と説明しています。そう考えられている根拠は、大きく3つあります。

根拠1|亡くなる前の朝に描いていた、という証言

テオの妻ヨーの兄で、兄弟と親しかったアンドリース・ボンゲルは、手紙の中で「亡くなる前の朝、彼は日の光と生命にあふれたスー・ボワを描いていた」と書き残しています。スー・ボワ(sous-bois)はフランス語で「森の中の下草」を指す言葉で、木の幹と根が画面を埋める《木の根》の内容とよく合います。

根拠2|完全には仕上がっていない

美術館によれば、この作品は完全には完成しておらず、それが未完成に見える理由だとされています。筆の途中で制作が止まった絵であることは、最期の日の出来事と重ねて語られてきました。

根拠3|2020年、描かれた場所が特定された

2020年、オーヴェルのゴッホ研究所(Institut Van Gogh)で研究責任者を務めるヴァウテル・ファン・デル・フェーンが、1900〜1910年ごろの絵はがきに、斜面から生える木の根と幹が写っているのを見つけました。場所は、ゴッホが下宿していたラヴー旅館からほど近い、ドービニー通り沿いの斜面です。

ファン・ゴッホ美術館の研究者はこの発見を「非常に可能性が高い」と評価し、翌2021年には1907年に撮られた写真が見つかったことで、美術館は場所を確定したと発表しました。同館は、ゴッホがこの絵を描いた数時間後に自殺を図ったと説明しています。ゴッホは1890年7月27日に銃で自分の胸を撃ち、2日後の7月29日に亡くなりました。

ただし、日付の入った制作記録が残っているわけではありません。「最後の作品」はあくまで証言と状況証拠を積み重ねた推定で、美術館も「おそらく」という言い方をしています。

《木の根》はどんな絵?3つの鑑賞ポイント

1. 最初は何が描かれているか分からない

ぱっと見ると、青や黄土色、緑の色面と、うねる形が重なっているだけに見えます。美術館の解説も、明るい色と空想的な抽象的な形のごちゃまぜに見える、と書いています。しばらく見ていると、斜面から伸びる木の幹と、地表にむき出しになった根だと分かってきます。描かれているのは、石灰分を含む土(泥灰土)を掘った跡の斜面に生えた木々です。

2. 空も地平線もない

ゴッホの風景画の多くは、空と地面をはっきり描き分けています。ところが《木の根》には空も地平線もありません。画面の上から下まで、幹と根と土だけで埋め尽くされています。見る人の足場になる「水平線」を取り去った構図が、この絵の落ち着かなさと力強さを生んでいます。

3. 横長の「二倍正方形」カンヴァス

縦50.3cm、横100.1cm。縦のちょうど2倍の横幅がある画面です。正方形を2つ横に並べた比率なので「二倍正方形」と呼ばれます。オーヴェル時代の後半、ゴッホはこの横長の画面をくり返し使いました。このあと紹介する《カラスのいる麦畑》《雷雲の下の麦畑》《ポプラ林の中の二人》《ドービニーの庭》も、ほぼ同じ比率です。

《カラスのいる麦畑》1890年は最後の作品ではない?

カラスのいる麦畑 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
《カラスのいる麦畑》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年7月、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館蔵(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:カラスのいる麦畑/1890年7月/油彩・カンヴァス/50.5×103cm/ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

暗く荒れた空、群れで飛ぶカラス、麦畑の中で途切れる道。死の予感を読み取りやすい画面なので、この絵は長いあいだ「ゴッホの絶筆」として紹介されてきました。

しかしファン・ゴッホ美術館は、これを最後の作品とする説を「根強い神話」だとしています。ゴッホはこの絵のあとにも、ほかの作品を何点か描いているからです。

手紙から分かる制作時期

1890年7月10日ごろ、ゴッホはテオと妻ヨーに宛てた手紙で、パリから戻ったあとに大きなカンヴァスを3点描いたと伝えています。荒れた空の下に広がる麦畑で、悲しみと極度の孤独を表そうとした、という内容です。ゴッホ書簡集の編者は、このうち2点を《雷雲の下の麦畑》と《カラスのいる麦畑》である可能性が高いとしています。3点目は《ドービニーの庭》です。

つまり《カラスのいる麦畑》は、亡くなる2週間以上前に描かれていた可能性が高いことになります。同じ手紙でゴッホは、これらの絵が言葉にできないもの、つまり田園にある健やかで力づけるものを伝えてくれるだろう、とも書いています。絶望だけを描こうとした絵ではありませんでした。

雷雲の下の麦畑 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
《雷雲の下の麦畑》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年7月、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館蔵(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:雷雲の下の麦畑/1890年7月/油彩・カンヴァス/50.4×101.3cm/ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

《カラスのいる麦畑》と同じ時期の作品です。こちらにはカラスも道もなく、麦畑と空の2つの帯だけで画面ができています。同じ「荒れた空の下の麦畑」でも、受ける印象はかなり違います。

なぜ「絶筆」と言われるようになった?

大きな理由のひとつは、ゴッホの手紙を世に出したヨー自身の言葉です。1914年に刊行した書簡集の序文で、ヨーは晩年の手紙や絵から、嵐の中を飛ぶ黒い鳥のように迫ってくる破局が感じられる、と書きました。劇的な画面と最期の物語が結びつき、「カラスの絵が最後の作品」というイメージが広まったと考えられます。

なお、ファン・ゴッホ美術館の公式サイトによると、《カラスのいる麦畑》は2026年9月時点で修復作業中のため展示されていません。現地で見たい人は、事前に展示状況を確認してください。

ゴッホ最後の70日間|オーヴェルで描かれた作品

ラヴー旅館 オーヴェル=シュル=オワーズ ゴッホが最期を過ごした宿
ラヴー旅館の外観。フランス、オーヴェル=シュル=オワーズ。2021年撮影。ゴッホはこの宿の屋根裏部屋に下宿し、ここで亡くなりました。Chabe01, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons.

1890年5月20日、南仏サン=レミの療養院を出たゴッホは、パリから北西へ列車で約1時間のオーヴェル=シュル=オワーズに移りました。弟テオの勧めで、医師ポール・ガシェのもとで療養するためです。宿はラヴー旅館の屋根裏部屋でした。

オルセー美術館によれば、ゴッホはこの約70日間に74点の絵と多数の素描を残しています。ほぼ1日1点のペースです。「最後の作品」を1点に絞りにくいのは、それだけ短い期間に多くの絵が描かれたからでもあります。

  • 5月20日:オーヴェルに到着
  • 6月:《オーヴェルの教会》《医師ガシェの肖像》などを制作
  • 6月下旬〜7月初め:《ポプラ林の中の二人》。7月2日付の手紙でこの絵を説明
  • 7月6日:パリのテオ一家を訪ねる
  • 7月10日ごろ:麦畑の大作と《ドービニーの庭》を描いたことを手紙で報告
  • 7月23日:テオへの最後の手紙。《ドービニーの庭》などのスケッチを添える
  • 7月27日:《木の根》を描いたとされる日。同じ日に銃で胸を撃つ
  • 7月29日:ラヴー旅館で死去。37歳
オーヴェルの教会 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
《オーヴェル=シュル=オワーズの教会》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年6月、油彩・カンヴァス、オルセー美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:オーヴェル=シュル=オワーズの教会、後陣からの眺め/1890年6月/油彩・カンヴァス/93×74.5cm/オルセー美術館(パリ)

オーヴェル到着から間もない6月の作品です。13世紀に建てられた村の教会が、青い空を背景に、ゆがんで揺れているかのように描かれています。オーヴェル時代の作品というと麦畑のイメージが強いのですが、到着直後のゴッホは村の建物や人物も数多く描いていました。

《ポプラ林の中の二人》1890年とは?シンシナティ美術館の最晩年作

ポプラ林の中の二人 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
《ポプラ林の中の二人》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年6月、油彩・カンヴァス、シンシナティ美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:ポプラ林の中の二人/1890年6月/油彩・カンヴァス/49.5×99.7cm/シンシナティ美術館(アメリカ・オハイオ州)

英語の題名は《Undergrowth with Two Figures》(二人の人物のいる下草)。ポプラの木立の奥を、男女が並んで歩いています。ゴッホが亡くなる約1か月前に描いた作品です。

ゴッホは7月2日付のテオとヨー宛ての手紙で、この絵を説明しています。紫がかったポプラの幹が柱のように風景を垂直に横切り、木立の奥は青く、幹の下には白、ピンク、黄、緑の花咲く草地と赤茶色の長い草が広がる、という内容です。

鑑賞ポイント|木立に閉じ込められたような二人

幹の上端は画面の外で切れていて、空はほとんど見えません。手前の草地から奥の暗がりまで、縦の幹がずらりと並びます。シンシナティ美術館も、奥へ連なる木々によって二人が茂みに閉じ込められているように見える、と解説しています。花の咲く明るい草地と、出口の見えない暗い奥。この対比が、美しさと同時に落ち着かなさを感じさせます。

僕が注目したいのは、《木の根》との共通点です。どちらも空をほとんど描かず、木の幹と地面だけで横長の画面を埋めています。ボンゲルが「スー・ボワ(森の中の下草)」と呼んだ最後の絵の約1か月前に、ゴッホはすでに同じ「森の中」を主題にした横長の大作を描いていたことになります。

この作品は1967年、メアリー・E・ジョンストンの遺贈でシンシナティ美術館に入りました。同館によれば、アメリカでは1913年のアーモリー・ショー(ニューヨークで開かれた近代美術の大規模展)で初めて公開されています。日本には2017〜18年の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」で来日しており、2026年秋からのシンシナティ美術館展で再び見られます。

《ドービニーの庭》1890年|最後の手紙に描かれた、日本にある最晩年作

ドービニーの庭 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年 ひろしま美術館
《ドービニーの庭》フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年7月、油彩・カンヴァス、ひろしま美術館蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:ドービニーの庭/1890年7月/油彩・カンヴァス/53.2×103.5cm/ひろしま美術館(広島市)

シャルル=フランソワ・ドービニー(1817〜1878年)は、ミレーらとともにバルビゾン派(パリ近郊の村バルビゾンを拠点に、農村や森の風景を描いた画家たち)と近い位置にいた風景画家で、晩年をオーヴェルで過ごしました。ゴッホが敬愛した画家のひとりです。この絵は、ドービニーの死後も未亡人が暮らしていた邸宅の庭を描いています。

ゴッホはこの庭を、ほぼ同じ構図で2点描きました。1点目はスイスのルドルフ・シュテーヘリン・コレクションの作品(バーゼル市立美術館に寄託)、2点目がひろしま美術館の作品です。

テオへの最後の手紙に、この絵のスケッチがある

1890年7月23日、ゴッホはテオに手紙を書きました。これが、実際にテオへ届いた最後の手紙です。そこには《ドービニーの庭》のスケッチが添えられ、ゴッホはこの絵を自分の作品の中でも最もよく考え抜いたもののひとつだと書いています。ゴッホ書簡集の注によれば、このスケッチのもとになったのはひろしま美術館の作品です。ゴッホの最後の手紙に描かれた絵が、日本の美術館にあるということになります。

2つのバージョンは、画面左下を見ると区別しやすくなります。バーゼル版には黒猫が描かれていますが、ひろしま版には見当たりません。書簡集の注では、手紙のスケッチには黒猫がいて、ひろしま版の猫は後から塗りつぶされたとされています。

7月23日は銃撃の4日前にあたるため、《ドービニーの庭》(ひろしま版)を「最後の作品」とする紹介も日本ではよく見かけます。最晩年の作品であることは確かですが、亡くなる前の朝に描いていたという証言がある《木の根》のほうが、最後の1点としては有力です。

日本で見られるゴッホ最晩年の作品

シンシナティ美術館展(2026〜27年)で《ポプラ林の中の二人》

《ポプラ林の中の二人》は、「シンシナティ美術館展 ~アメリカに渡ったヨーロッパの至宝~」の目玉作品として来日します。公式サイトによれば、来日する84点のうち81点が日本初公開です。東京展のあと、富山・名古屋・大阪を巡回します。

  • 東京:上野の森美術館/2026年10月10日(土)〜2027年1月10日(日)/会期中無休
  • 富山:富山県美術館/2027年1月23日(土)〜4月11日(日)
  • 名古屋:2027年4月23日(金)〜7月4日(日)/会場は後日発表
  • 大阪:大阪市立美術館/2027年7月17日(土)〜9月26日(日)

東京展の観覧料は一般2,400円、前売券は一般2,200円です(前売の販売は2026年10月9日まで)。最新の情報は展覧会公式サイトで確認してください。見どころやほかの出品作は、シンシナティ美術館展2026の見どころ記事で詳しく紹介しています。

シンシナティ美術館 外観
シンシナティ美術館の外観。アメリカ・オハイオ州シンシナティ、イーデン・パーク内。2021年撮影。EEJCC, CC0, via Wikimedia Commons. ※本記事の作品画像とは別の、美術館外観の参考写真です。

ひろしま美術館で《ドービニーの庭》

《ドービニーの庭》は、広島市中区のひろしま美術館の所蔵作品です。展示替えや貸し出しで見られない時期もあるため、訪問前に美術館の公式サイトで確認しておくと安心です。

ひろしま美術館 外観
ひろしま美術館の外観。広島市中区基町。2013年撮影。Oilstreet, CC BY 2.5, via Wikimedia Commons. ※本記事の作品画像とは別の、美術館外観の参考写真です。

国内のほかのゴッホ作品については、日本でゴッホが見られる美術館12選にまとめています。

《木の根》《カラスのいる麦畑》はアムステルダム

最後の作品とされる《木の根》と、《カラスのいる麦畑》《雷雲の下の麦畑》は、いずれもアムステルダムのファン・ゴッホ美術館の所蔵です。2026年9月時点の同館サイトでは、《木の根》と《雷雲の下の麦畑》は展示中、《カラスのいる麦畑》は修復のため展示されていません。

よくある質問

ゴッホの最後の作品は何ですか?

《木の根》(1890年7月、ファン・ゴッホ美術館蔵)が最有力です。義弟アンドリース・ボンゲルの証言、未完成の状態、2020〜21年の描かれた場所の特定から、ゴッホが銃撃の日に描いていた絵と考えられています。

《カラスのいる麦畑》は絶筆ではないのですか?

ファン・ゴッホ美術館は、絶筆とする説を根強い神話だとしています。7月10日ごろの手紙の内容から、亡くなる2週間以上前には描かれていた可能性が高く、そのあとにも作品が描かれています。

ゴッホの最晩年の作品は日本にありますか?

あります。ひろしま美術館の《ドービニーの庭》は1890年7月の作品で、7月23日の最後の手紙にスケッチが描かれています。また2026年10月からは、1890年6月の《ポプラ林の中の二人》がシンシナティ美術館展で来日します。

ゴッホは最後の70日間に何点の絵を描きましたか?

オルセー美術館は、オーヴェルでの約70日間に74点の絵を描いたとしています。数え方によって70点前後とする資料もあります。

ゴッホはなぜ亡くなったのですか?

1890年7月27日に自ら銃で胸を撃ち、7月29日に亡くなったとするのが通説です。少年による誤射説などもあります。詳しくはゴッホの死因と耳切り事件の記事で解説しています。

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まとめ

ゴッホの最後の作品は、現在の研究では《木の根》が最有力です。空も地平線もない画面に、木の幹と根と土だけが描かれた未完成の横長の絵で、ゴッホは銃撃の日の朝にこれを描いていたと考えられています。

一方、「絶筆」として有名な《カラスのいる麦畑》は、7月前半に描かれた作品です。最後の1点ではありませんが、同じ時期の《雷雲の下の麦畑》や《ドービニーの庭》とともに、ゴッホが最後の数週間に取り組んだ大作であることに変わりはありません。

日本では、最後の手紙にスケッチが残る《ドービニーの庭》をひろしま美術館で、《木の根》と同じく「森の中」を描いた《ポプラ林の中の二人》を2026〜27年のシンシナティ美術館展で見ることができます。最後の70日間の絵を、本物で確かめる機会にしてください。

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