首がすっと伸びた女性、アーモンド形の目、どこか遠くを見つめる表情。アメデオ・モディリアーニ(1884〜1920年)の絵は、画家の名前を知らなくても、ひと目で印象に残ります。
モディリアーニは何がすごいのでしょうか。その答えは、人物を単に写し取るのではなく、その人の存在感を、独自の形と線で表す肖像画を生み出したことにあります。長い首は気まぐれなデフォルメではありません。彫刻の研究、イタリア美術への関心、パリの前衛芸術が重なって育った表現です。
この記事では、代表作12点の画像を見ながら、首が長い理由、細長い顔の原点、瞳を描かない目の表現を作品と美術館資料から掘り下げます。さらに生涯、生前の評価、親交のあったアーティスト、後世への影響、ジャンヌ・エビュテルヌとの関係、日本で作品を見る方法まで紹介します。
モディリアーニとは?30秒でわかる基本情報
- 名前:アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)
- 生没年:1884年7月12日〜1920年1月24日(35歳)
- 出身:イタリア・リヴォルノ
- 活動拠点:1906年から主にフランス・パリ
- 分野:油彩、素描、彫刻。特に人物の肖像画と裸婦像で知られる
- 特徴:長い首と顔、アーモンド形の目、明快な輪郭線、抑えた色彩
- 主な影響:イタリア・ルネサンス美術、彫刻家ブランクーシ、アフリカなどヨーロッパ以外の造形、セザンヌ
- 日本で見られる作品:大原美術館所蔵《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》(展示状況は要確認)
イタリアで美術を学んだ後、21歳のときにパリへ移ります。当時のパリでは、ピカソらが従来の写実にとらわれない表現を探していました。モディリアーニも新しい表現を模索しますが、特定の流派にそのまま収まることなく、人物を描き続けました。ナショナル・ギャラリー(米国)の作家解説でも、その肖像画の独自性が強調されています。
なぜモディリアーニは首と顔が長く、目に瞳がないのか?4つの理由
1. 首が長い理由|石を彫ることで確立した縦長の形
モディリアーニの人物の首が長いのは、人体を正確に描く技術がなかったからではありません。あえて現実の比率を変え、ひと目でわかる人物の形をつくり上げたのです。頭から首、肩までをつなぐ一本の流れが、画面にすっと立ち上がる感覚を生みます。ただし「首を長くした理由」を画家本人が一つの言葉で説明した確かな記録があるわけではなく、作品の変化と影響関係から考える必要があります。
鍵になるのは、1909年頃から1914年頃にかけての彫刻制作です。モディリアーニは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流し、石を直接彫ることに取り組みました。メトロポリタン美術館によると、この時期の細長い石の頭部は、その後の肖像画にも繰り返し登場します。石の塊を削り、鼻や頬、首を最小限の形へまとめる経験が、絵筆で人物を描く際にも生かされたのです。

上の《女性の頭部》をよく見ると、鼻が顔の中央を縦に走り、目や口は小さく整理され、首は長い円柱に近づいています。これを後半の《ジャンヌ・エビュテルヌ》の絵画と見比べてください。彫刻で試みた縦長の形が、色彩を持つ肖像画にも受け継がれていることがわかります。つまり長い首は、単なる癖ではなく、何年も試してつくった造形上の選択だったと考えられます。
2. 目に瞳がない理由|「目を描かない」のではなく、目を単純化した
「モディリアーニの絵には目がない」とよくいわれますが、実際に省略されているのは、主に瞳孔など目の細部です。アーモンド形の輪郭は描かれ、内側は青や灰色などの色面で埋められている場合があります。一方で、瞳をはっきり描いた肖像もあります。新たに掲載した《横たわる裸婦(Nu couché)》には目の中の描写があり、画家がすべての人物の瞳を省いていたわけではないと確認できます。
オランジュリー美術館の《ビロードのリボンをつけた女性》の解説では、瞳のない顔を、石彫の頭部やカリアティード(柱の役割を担う女性像)の素描で行った実験が絵画へ移されたものと説明しています。視線の情報を減らすことで、目だけに感情を語らせず、首の傾き・姿勢・輪郭によって人の気配を感じさせる。これは作品から読み取れる表現効果です。ただし、画家が必ずその効果だけを狙ったと断定することはできません。
なお「君の魂を理解したら目を描こう」といった言葉がモディリアーニの発言として紹介されることがあります。しかし、本人の手紙など確実な一次資料にまでたどれる発言としては確認しにくく、瞳の有無を「モデルの魂を理解したかどうか」で決めたという説を事実として扱うのは慎重であるべきでしょう。瞳を描いた作品と描かない作品が混在する点からも、一つのルールだけでは説明できません。
3. 顔が長い理由|アフリカの仮面と古代美術を研究した
モディリアーニは20世紀初頭のパリで、ヨーロッパの古典絵画とは異なる造形に触れました。メトロポリタン美術館の研究は、とりわけ現在のコートジボワールに暮らすバウレの人々が制作した仮面・人物像に注目しています。細く伸びた顔、顎へ向かってすぼまる輪郭、位置を抑えた小さな口といった特徴は、モディリアーニの彫刻と肖像画にも現れます。ただし、アフリカの美術は一種類ではなく、特定の仮面だけが唯一のモデルだったわけではありません。同館はさらに、エジプト、古代ギリシャ、キクラデス諸島、シュメールの美術との関連も指摘しています。顔を細長く、目鼻を記号のように整理することは、人物の造形を組み直すための方法だったと考えられます。

明るい木肌のこの仮面を見ると、細長い顔、目を細い線にまとめた表現、顔の中心を通る長い鼻がわかります。モディリアーニの《女性の頭部》と見比べると、写実的な凹凸よりも輪郭と最小限の目鼻で顔を構成するという共通点が見えてきます。メトロポリタン美術館は、バウレ族の仮面や人物像の造形をモディリアーニが自身の彫刻や絵画に取り入れたと解説しています。ただし、特定の仮面を直接模写したという意味ではありません。
モディリアーニの細長い顔は、アフリカ美術だけで説明できるわけではありません。次の節には、エーゲ海のキクラデス文明の腕を組んだ大理石の全身像と、イタリア絵画《長い首の聖母》を横並びで載せています。時代も文化も異なる2つの作品を見比べると、長い首や省略された目鼻がどのような造形上の効果を生むのか、より具体的にわかります。なお、キクラデスの人物像は目などが元々顔料で描かれていた例もあるため、現在の姿だけから『最初から目がなかった』とは断定できません。
4. 優雅さの理由|イタリアのマニエリスムとセザンヌを組み合わせた
もう一つの重要な源流が、モディリアーニの故郷イタリアの美術です。16世紀のマニエリスムでは、自然な人体の比率より、長い首やしなやかな姿勢による優雅な印象が重視されることがありました。たとえばパルミジャニーノの《長い首の聖母》は、その名前のとおり首を極端に引き伸ばしています。ただし、モディリアーニがその一枚を直接模写したという意味ではありません。メトロポリタン美術館は《ジャンヌ・エビュテルヌ》(1919年)の非対称の構図や引き伸ばされた姿に、16世紀イタリアのマニエリスムとの関係を認めています。


一方、形を整理して描く方法には、セザンヌの影響も認められます。米国ナショナル・ギャラリーは、モディリアーニがアフリカ・エジプト美術、イタリア・ルネサンス美術、とりわけセザンヌから刺激を受けたと説明しています。それらを取り込みながら、ピカソのように人物を幾何学的に解体する方向ではなく、一人の人物だとわかる姿を保ち、首の傾きや手の置き方で個性を残す方向へ進みました。長い首、細長い顔、瞳のない目は、写実を捨てた結果というより、別の方法で「肖像画らしさ」を探した結果といえます。
モディリアーニの代表作12選|画像と見どころ
彫刻から晩年の肖像画まで、画風がわかる12作品を選びました。1917〜18年の《横たわる裸婦(Nu couché)》も加え、似た邦題の裸婦像を混同しないように紹介します。制作年に幅のある作品は美術館や資料による表記に合わせています。
1. 《女性の頭部》1912年|長い顔の原点

先ほど紹介した石灰岩の彫刻です。目や鼻を単純な線と量感へ整理した姿は、後の絵画を見るための重要な手がかりになります。絵画の長い首を不思議に思ったら、この彫刻に戻ってみてください。
2. 《ポール・ギヨームの肖像(ノヴォ・ピロタ)》1915年|画商を描いた重要作

黒い帽子にスーツ、片手にたばこを持つ若き画商ポール・ギヨームを描いた肖像画です。ギヨームは1914年にモディリアーニと知り合い、作品制作を支えた初期の重要な後援者でした。オランジュリー美術館はこの絵を、画家と画商の関係を象徴する作品として紹介しています。
画面に大きく書かれた「PAUL GUILLAUME」と「NOVO PILOTA」は、人物の名前と「新たな舵取り役」という意味の言葉。顔は立体感を大胆に簡略化しながら、帽子やネクタイ、手のしぐさで若い画商の自信を表しています。オランジュリー美術館の作品解説も参照できます。
3. 《横たわる裸婦(Nu couché)》1917〜18年|2015年に約1億7,040万ドルで落札された代表作

赤い寝具と青いクッションを背景に、女性が腕を上げてこちらを見つめています。大胆な赤と肌色の対比、画面を横切る曲線、画面の端で大胆に切れる身体が目を引く、モディリアーニの裸婦像を象徴する一枚です。人物の身体は単純化されていますが、眼差しには力があり、「モディリアーニは目を描かない」という思い込みを覆す作品でもあります。
2015年11月9日、ニューヨークのクリスティーズで約210億円(1億7,040万5,000ドル、落札当時の為替レートで換算)で落札され、当時のモディリアーニ作品の競売最高額を記録しました。クリスティーズの記録(2015年11月10日)によれば、1917年の個展をめぐる論争でも知られる裸婦の連作に属します。
同じ記事に掲載したメトロポリタン美術館所蔵の《横たわる裸婦》、2018年にサザビーズで落札された《横たわる裸婦(左側を下にして)》は、いずれも別の絵です。同じような邦題の作品が複数あるため、制作年・構図・所蔵先で見分けると混同を避けられます。
4. 《横たわる裸婦》1917年|伝統的な裸婦像を描き直す

西洋絵画に古くからある横たわる裸婦の主題を扱いながら、身体の輪郭を大きな曲線でまとめ、肌の色に温かみを持たせています。写実的な細部よりも、ポーズと色面のリズムが画面を支えています。
1917年、画商ベルト・ヴェイユの画廊で開いた生前唯一の個展では、裸婦像が問題視され、警察による介入を受けました。今日の評価だけを見ると意外ですが、当時の社会では挑発的に受け止められた作品でもありました。オランジュリー美術館の解説にその経緯があります。
5. 《横たわる裸婦(左側を下にして)》1917年|全身を描いた大作

白いシーツの上に横たわる女性を、ほぼ全身にわたって描いた大作です。前に紹介したメトロポリタン美術館の《横たわる裸婦》と同じ1917年の裸婦像ですが、別の作品です。こちらは顔を振り向けた女性の頭から足先まで、一本の大きな曲線が画面を横切るように続きます。
2018年、サザビーズの競売で約170億円(1億5,715万9,000ドル、落札当時の為替レート換算)という高額で落札されました。裸婦像の大胆さと画面の構成力が評価される、モディリアーニを代表する一枚です。サザビーズの作品解説。
6. 《女性の肖像》1917〜19年頃|単純な線と静かな存在感

細長い顔、簡潔な鼻筋、伏し目がちな目元。大きな動きはないのに、人物が画面の中で確かな重みを持っています。輪郭のゆがみや左右の非対称も、機械的な美しさにはない個性を生んでいます。
7. 《シャイム・スーティン》1918年|友人の素顔を描く

同じパリで活動した画家スーティンを描いた作品。顔は長く変形されていますが、少し不揃いな目、手の組み方、服装からは、形式的な美貌とは違う、生身の人物への親しみが伝わります。アメリカのナショナル・ギャラリーは、モディリアーニがスーティンの才能を画商に紹介したことにも触れています。
8. 《セーラー服の少女》1918年|目と輪郭だけで人物を見せる

南フランス滞在中の作品です。モデルはパリで親しくしていた芸術家仲間ではなく、当地で出会った少女。なめらかな顔の形、細く伸びる首、正面を向く構図は、モディリアーニの様式が身近な人々にも一貫して用いられたことを示しています。
9. 《イタリアの女》1918〜19年頃|目鼻の線で気配をつくる

顔の左右は完全には対称でなく、首も実際より長く描かれています。それでも不自然というより、人の気配が静かに立ち上がるのがこの作品です。モデルの名前が不明なことも、「誰なのか」だけに頼らず画面を見るきっかけになります。
10. 《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年|日本にある代表作

日本でもモディリアーニの本物を見られます。倉敷の大原美術館が所蔵するこの作品は、恋人ジャンヌを描いた一枚。細く伸びた顔と首、簡潔な衣服の形、穏やかな色の組み合わせが印象的です。日本の公的な美術作品情報サイト「Art Platform Japan」にも作品データが掲載されています。
大原美術館の常設コレクションに属する作品ですが、貸出し・展示替え等で見られない場合があります。訪問する際は大原美術館公式サイトで現在の展示状況を確認してください。
11. 《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年|同じ女性でも表情が変わる

同じジャンヌを描いても、こちらは肩の傾きや手の位置が異なり、細い輪郭の中に緊張感があります。「モディリアーニはみな同じ顔を描く」と感じていた人ほど、二つのジャンヌ像を見比べてみてください。姿勢や衣服の色、顔の方向によって、受ける印象が変わります。
12. 《ジャンヌ・エビュテルヌ》1919年|メトロポリタン美術館の名作

白いシュミーズ姿のジャンヌが椅子に座り、左手を頬に添えています。頭を傾け、肩や腕を柔らかい曲線でつないだ構図は、首や身体を引き伸ばすことで優雅さを生み出したイタリアのマニエリスム絵画にも通じます。
瞳の中は淡い青白色に塗られ、目の向きははっきりしません。それでも手を顔に添えるポーズと、少し傾いた頭の組み合わせから、静かな物思いが感じられます。大原美術館所蔵のジャンヌ像と見比べると、同じ人物をまったく異なる表情で表現したことがわかります。メトロポリタン美術館公式作品ページ。
モディリアーニの生涯|イタリアからパリへ、35年の人生
1884〜1906年|故郷イタリアで美術を学ぶ
1884年、イタリア西部の港町リヴォルノに生まれました。若い頃から病気に悩まされながらも、フィレンツェやヴェネツィアで絵画を学び、古典美術に親しみました。
1906〜1914年|パリで新しい表現を探し、石を彫る
1906年にパリへ移住し、芸術家が集まるモンマルトルやモンパルナスで活動します。ピカソらと同じ環境で学び、ブランクーシとの出会いを通じて彫刻にも取り組みました。1914年頃には彫刻制作から離れ、油彩の肖像画に力を注ぎます。
1915〜1920年|肖像画が成熟する
芸術家の友人や、パリと南フランスで出会った人々を描くなかで、長い首・楕円形の顔・アーモンド形の目という独自の人物表現を磨きました。1917年には唯一の生前個展を開催。1918年には体調の回復を願って南フランスへ移りました。
健康状態は次第に悪化し、1920年1月24日、パリで35歳の若さで亡くなりました。死因は結核性髄膜炎です。生前の名声と経済的成功は限定的で、その後、20世紀を代表する人物画家として評価が高まっていきました。
なぜ35歳で亡くなった?死因は結核性髄膜炎
モディリアーニが亡くなった直接の原因は結核性髄膜炎(けっかくせいずいまくえん)です。結核菌が脳や脊髄を包む髄膜に感染する重い病気で、当時は有効な治療法が限られていました。彼は幼少期から病気がちで、若い頃から結核に苦しんだとされています。晩年は体調が悪化し、1920年1月に重篤な状態で発見され、パリの病院へ搬送されましたが、1月24日に35歳で亡くなりました。Fondazione Amedeo Modiglianiの伝記にも、当時の経緯が記されています。
不安定な生活や過度の飲酒などが健康を損ねた可能性は指摘されています。ただし、飲酒が直接の死因だったわけではなく、死因は結核性髄膜炎です。生活習慣の影響については断定を避け、病気の経過と区別して捉える必要があります(グッゲンハイム美術館の解説)。
モディリアーニは生前に評価された?死後に有名になった理由
今では作品が100億円を大きく超える金額で取引され、世界中の美術館で紹介されるモディリアーニ。しかし独特の首や顔、瞳を省いた肖像画が、生きている間から広く高く評価されていたわけではありません。一方で、誰にも理解されないまま孤独に亡くなった、と考えるのも正確ではありません。パリの芸術家や画商の一部は、その画風に早い時期から注目していました。
1910年代|画商や芸術家たちは独自の画風に注目していた
パリで活動を始めたモディリアーニは、1907年のサロン・ドートンヌ、1908年のアンデパンダン展などにも出品しました。画家として作品を発表する場はありましたが、まだ一般に広く知られる存在ではありません。1914年頃からは画商ポール・ギヨームの支援を受け、肖像画の制作を進めます。
1916年には芸術家たちの集まる「リール・エ・パレット」のグループ展で14点の絵画と素描を出品。画家モイーズ・キスリングも出品に協力し、グループ展でありながらモディリアーニの存在感が際立つ展示になりました。美術史研究団体The Modigliani Initiativeは、この展覧会を詳しく記録しています。すでに同時代の仲間から一定の評価を得ていたことがわかります。
1917年|唯一の生前個展で裸婦像が問題視される
1917年12月、画商ベルト・ヴェイユのパリの画廊で、生前唯一の個展が開かれました。ところが裸婦像が風紀上の問題として警察にとがめられ、画廊の表に見える作品を取り下げる騒動が起こります。注目を集めたことと、芸術として認められたことは同じではありません。少なくともこの個展によって画家の生活が大きく好転したとはいえません。
ポーラ美術館の「モディリアーニを探して」展の解説は、当時の画商ギヨームやレオポルド・ズボロフスキー、批評家アンドレ・サルモンらの尽力で絵が少しずつ知られるようになった一方、個展をめぐる混乱後も境遇は大きく変わらなかったとしています。画風を認める人はいたものの、広く売れ、生活が安定する段階には達しなかったのです。
1920年以降|死後に美術史上の評価と市場価値が高まった
1920年に35歳で亡くなると、モディリアーニの評価は次第に国際的に広がりました。The Modigliani Initiativeの研究によると、画商ポール・ギヨームが作品の購入と販売、評価の形成にいっそう積極的になったのは画家の死後です。1922年には米国の収集家アルバート・バーンズに作品が購入されるなど、国外にも広まっていきました。
現在、メトロポリタン美術館は、モディリアーニが生前はパリ以外でほとんど知られていなかった一方、今日では20世紀初頭を代表する人物画家の一人と評価されていると紹介しています(同館《ジャンヌ・エビュテルヌ》作品解説)。生前に少数の理解者が見いだした独自の画風が、死後に広く認められた、というのが実情に近いでしょう。高額落札はその結果の一つですが、価格そのものが作品の美術史的価値を決めるわけではありません。
モディリアーニと親交のあったアーティストは誰?
モディリアーニの肖像画に友人の名前が多いのは、人物を描くためだけではありません。20世紀初頭のモンパルナスでは、国籍や画風の異なる芸術家がカフェやアトリエで交流していました。モディリアーニもその中心にいた一人です。特に関係の深い人物を見ていきます。
コンスタンティン・ブランクーシ|彫刻の考え方に大きな影響を与えた友人
ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシとは1909年頃に出会いました。細部を削ぎ落とし、石の形や量感を生かすブランクーシの彫刻は、モディリアーニの石彫への取り組みに大きな影響を与えました。つまりブランクーシは単なる同時代の知人ではなく、長い首と顔の様式が生まれる過程に関わる重要人物です。グッゲンハイム美術館も二人の親しい交流と造形上の影響を説明しています。
シャイム・スーティン|作品を描き、画商にも紹介した親友
リトアニア出身の画家シャイム・スーティンとは1914年頃に知り合い、親密な友情を築きました。上で紹介した《シャイム・スーティン》は、少し不揃いな顔立ちやぎこちない座り方まで捉えた肖像です。モディリアーニは友人の画風に価値を見いだし、1916年には自分の画商ズボロフスキーにスーティンを紹介しました。ワシントン・ナショナル・ギャラリーもこの出来事を記録しています。
二人の絵は似ていません。モディリアーニは滑らかな輪郭で形を整理するのに対し、スーティンは激しい筆づかいとゆがんだ空間で感情を表しました。それでも、独自の画風を貫く友人同士として互いを認めていたことが、交流の興味深い点です。
モイーズ・キスリング|展覧会でも支え合ったモンパルナスの仲間
ポーランド出身の画家モイーズ・キスリングも親しい仲間でした。キスリングは1916年のリール・エ・パレット展でモディリアーニの作品展示に力を貸し、その年、画商ズボロフスキーとの出会いにもつながりました。バルベリーニ美術館の展覧会ではキスリングらの肖像を通じて、国境を越えた画家たちの交流も取り上げています。
ピカソ、フアン・グリス、ディエゴ・リベラ|同時代の前衛芸術家たち
パブロ・ピカソ、キュビスムの画家フアン・グリス、のちにメキシコ壁画運動を代表するディエゴ・リベラらともパリの芸術家社会で交流し、人物を描いています。ただし、交流があったことと、相手に直接師事したことは別です。モディリアーニはピカソたちから造形上の刺激を受けながらも、キュビスムのように顔を複数の視点へ分解するのではなく、人物の全体像を保つ方向を選びました。ティッセン=ボルネミッサ美術館は、リベラやスーティンなどの友人を描いた肖像を紹介しています。
藤田嗣治や詩人たち|国籍もジャンルも越えた交友関係
日本からパリへ渡った藤田嗣治も、モディリアーニと同じエコール・ド・パリの芸術家社会で活動し、交流がありました。詩人マックス・ジャコブはモディリアーニと画商ポール・ギヨームを結びつける役割を果たしたとされます。詩人・芸術家ジャン・コクトーとも交わり、肖像を描きました。絵画だけに閉じず、詩・演劇・デザインに近い人々とも接していたことがわかります。ペギー・グッゲンハイム・コレクションの略歴とオランジュリー美術館に交流の記録があります。
モディリアーニは誰から影響を受け、誰に影響を与えた?
影響を受けた画家・彫刻家|セザンヌ、ブランクーシ、ゴーギャンら
絵画の初期には、ポール・セザンヌの形の構築、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの人物の捉え方、ポール・ゴーギャンの輪郭と平面的な色彩などから刺激を受けました。これらはペギー・グッゲンハイム・コレクションが初期の影響源として挙げている画家たちです。また、先に見たブランクーシやアフリカ・古代美術の造形、イタリアの古典美術から得たものも大きく、どれか一つの作風をそのまま真似たわけではありません。
同時代の画家に与えた影響|スーティンを支えた具体的な行動
「誰に影響を与えたか」を考えるとき、画風の模倣と、芸術家の活動を支えたことは区別したいところです。スーティンについては、モディリアーニがその絵を高く評価し、画商ズボロフスキーへ紹介して、活躍の機会を広げたという具体的な記録があります。ただし、スーティンの荒々しい筆づかいがモディリアーニの長い首の肖像画から直接生まれた、という意味ではありません。
後世の画家への影響|「人物の形を変えて、その人らしさを描く」という道
モディリアーニが後世に残した重要な可能性は、写実的な似顔絵でも、完全な抽象画でもない「形を大胆に変えながら、モデルの存在感を描く肖像画」のあり方です。細長い顔や明快な輪郭線は20世紀の人物表現に独自の位置を占めました。
2023年、米国ナッソー郡美術館の展覧会「Modigliani and the Modern Portrait」は、モディリアーニの作品とともに、デイヴィッド・ホックニー、エリック・フィッシュル、アレックス・カッツらの現代の人物画を紹介し、彼が切り開いた肖像画の可能性を比較しています(展覧会紹介)。ただし、同じ展覧会に並んだことだけで、これらの画家全員がモディリアーニから直接影響を受けたと証明されるわけではありません。影響の範囲を断言するより、現代の肖像画と見比べ、どこが共通しどこが違うかを確かめるのがよいでしょう。
モディリアーニの重要性は、特定の流派の創始者だったことより、彫刻・古典・同時代の前衛を自分の人物像へ統合したことにあります。その作品が「人物をどう描くか」という問いを、後の世代にも投げかけ続けているのです。
ジャンヌ・エビュテルヌとは?恋人であり、繰り返し描いたモデル
ジャンヌ・エビュテルヌ(1898〜1920年)は、画家を志していた女性です。1917年にモディリアーニと出会い、ふたりは親密な関係になりました。彼女は数多くの肖像画に登場します。メトロポリタン美術館によれば、モディリアーニはジャンヌを20点以上の作品で描いています。
1918年には娘が生まれました。1920年にモディリアーニが亡くなると、第二子を妊娠していたジャンヌも後を追うように自死しました。悲劇としてのみ二人を語ると、ジャンヌ自身が美術を学んだ人物だったことや、作品に込められた細かな観察を見落としてしまいます。肖像画を前にするときは、まず一人の人物として描かれた彼女の姿に目を向けたいところです。
モディリアーニとピカソ、セザンヌは何が違う?
セザンヌは、色と筆触で物の形や空間を組み立てる方法を追究しました。ピカソは、その先で形を分解し、複数の視点を大胆に導入します。モディリアーニは、形を単純化しながらも人物の全体像を保ち、その人の静かな存在感に向かいました。
同じ「写実を超える」画家でも、何を変え、何を残したのかが違います。関連する作品はセザンヌの画風・生涯・代表作、ピカソ《アヴィニョンの娘たち》の解説でも紹介しています。
モディリアーニについてよくある質問
Q. なぜ首が長いのですか?
細長い石彫の頭部や、イタリア古典美術に見られる引き伸ばされた人体表現などを取り入れ、人物を独自の形に整理したためです。モデルの実際の首の長さを再現したわけではありません。
Q. なぜ目に瞳がない作品があるのですか?
目を単純な色面で処理することで、顔の細部よりも輪郭、姿勢、表情の全体を強調する効果があります。ただし瞳の描かれた作品もあり、理由を一つに断定できません。
Q. モディリアーニは何派の画家ですか?
一般にエコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人として紹介されます。これは厳密な共通画風を持つ一派というより、20世紀初頭のパリで活動した国際色豊かな芸術家たちを指す呼び方です。
Q. 日本で作品を見ることはできますか?
岡山県倉敷市の大原美術館が《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》を所蔵しています。ただし常時展示は保証されないため、事前に公式案内をご確認ください。
まとめ|長い首の向こうにある、一人ひとりの個性
モディリアーニの肖像画は、誰かの顔を正確に写すことより、その人がそこにいるという感覚を形にすることに力を注いだ作品です。細長い顔、青く塗られた目、少し傾いた頭。写実から離れた特徴が、かえって人物の静かな個性を浮かび上がらせています。生前、その独創性を理解する人は限られていましたが、スーティンやキスリングらの仲間、画商たちとの交流を通じて作品は世に出され、死後の評価につながりました。
最初に見るなら、大原美術館の《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》。次に彫刻《女性の頭部》、そして《横たわる裸婦》へ進むと、モディリアーニの表現が彫刻から油彩へつながっていることが実感できます。
参考資料・画像について
「長い首」「細長い顔」「瞳のない目」の解説は、メトロポリタン美術館《女性の頭部》、同館のアフリカ美術とモダンアートに関する研究、オランジュリー美術館《ビロードのリボンをつけた女性》、メトロポリタン美術館《ジャンヌ・エビュテルヌ》、ウフィツィ美術館《長い首の聖母》を参照しました。2015年の《横たわる裸婦(Nu couché)》の落札情報はクリスティーズ公式記録を確認しています。
- メトロポリタン美術館《女性の頭部》
- メトロポリタン美術館《ジャンヌ・エビュテルヌ》
- ナショナル・ギャラリー(米国)モディリアーニ解説
- ティッセン=ボルネミッサ美術館・作家解説
- Art Platform Japan《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》(大原美術館)
- オランジュリー美術館・1917年個展の解説
掲載した作品図版は、主にWikimedia Commonsでパブリックドメインとして公開されている画像を使用しています。《ポール・ギヨーム(ノヴォ・ピロタ)》の撮影画像はCC BY 3.0で、撮影者名・ライセンス・原典へのリンクをキャプションに記載しています。
