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ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》徹底解説|鏡に映る2人は誰?署名の謎・象徴・どこで見られるか

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アルノルフィーニ夫妻の肖像 ヤン・ファン・エイク

600年近く前に描かれた一枚の肖像画が、いまも「この2人は誰なのか」「背後の鏡には何が映っているのか」と美術史家を悩ませ続けています。ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》です。豪華な部屋に立つ男女、天井のシャンデリア、足もとの小さな犬、そして壁にかかった丸い鏡。細部を追いかけるほど、静かな部屋の奥から謎がにじみ出てきます。

僕がこの絵でいちばんおもしろいと思うのは、描かれているのが「人物」だけではないところです。犬も、ろうそくも、窓辺の果物も、脱ぎ捨てられた靴も、すべてが何かを語るように置かれている。今回はこの絵の見どころと謎を、できるだけやさしく整理してみます。

アルノルフィーニ夫妻の肖像 ヤン・ファン・エイク
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》ヤン・ファン・エイク、1434年、油彩・板、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(原題:Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife)/1434年/油彩・板(オーク)/82.2×60cm/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵(所蔵番号 NG186)

目次

描かれているのは誰?

ナショナル・ギャラリーの解説によると、男性はおそらくジョヴァンニ・ディ・ニコラオ・アルノルフィーニ。イタリア・ルッカ出身で、当時毛織物などの交易で栄えたブルッヘ(現在のベルギー)で働いていた商人です。隣に立つのはその妻とされますが、名前は特定できていません。長らく「ジョヴァンナ・チェナーミ」という女性だと言われてきましたが、その結婚が成立したのはファン・エイクの死後(画家は1441年に没)だと分かり、いまでは疑問視されています。つまり、これだけ有名な絵なのに、描かれた2人が誰なのかは今も確定していないのです。

2人の表情を近くで見る

顔を大きく切り出してみると、この絵のすごみがもう一段はっきりします。ファン・エイクは油絵具を薄く重ねる技法で、肌の下の血の気や、まぶたの微妙な影まで描き分けている。まずは男性から。

アルノルフィーニ夫妻の肖像 男性の表情 部分 ヤン・ファン・エイク
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》1434年(部分・男性の顔) ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵 Public domain, via Wikimedia Commons.

青白いほど白い肌に、切れ長の目。口元はきつく結ばれ、感情を表に出さない。あげた右手は、宣誓のようにも、来客を迎えるあいさつのようにも見えます。じつはこの顔、下描き(絵具の下に隠れた最初の線)の段階ではもっと違う造作だったことが分かっていて、ファン・エイクは描きながら顔立ちを整えていったようです。実在の商人でありながら、どこか現実離れした静けさをまとっているのは、そのためかもしれません。

アルノルフィーニ夫妻の肖像 女性の表情 部分 ヤン・ファン・エイク
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》1434年(部分・女性の顔) ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵 Public domain, via Wikimedia Commons.

女性は視線を落とし、夫のほうへ静かに顔を向けています。当時の流行だった、額を広く見せるために生え際を剃り上げた髪型、そして幾重にも折り重なった白いヴェール。レースの一本いっぽん、ヴェールの透け具合まで克明で、見ていると布の重さまで伝わってくるようです。ふくらんだお腹はよく妊娠と誤解されますが、これは後の見どころで触れるとおり、当時のドレスの形によるものです。伏し目がちの表情には、慎ましさや従順さといった、この時代に理想とされた花嫁像が重ねられていると読む研究者もいます。

見どころ1 壁の鏡に映る「2人」

この絵の主役はもしかすると、奥の壁にかかった丸い鏡かもしれません。中央がふくらんだ凸面鏡(とつめんきょう)で、部屋全体を広く映し込むタイプの鏡です。よく見ると、そこには夫妻の後ろ姿に加えて、部屋に入ってこようとする2人の人物が小さく映っています。片方は手を上げているようにも見えます。ちょうど僕たち鑑賞者が立っている位置に、誰かがいる——そんな仕掛けです。

アルノルフィーニ夫妻の肖像 凸面鏡の部分 ヤン・ファン・エイク
ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》1434年(部分・壁の凸面鏡と署名) ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(部分)/1434年/油彩・オーク板/82.2×60cm/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

鏡は画面のほぼ中央、それも全体から見ればごく小さな円にすぎません。それでも、その中に部屋の全景が収まっています。左手前に夫の後ろ姿、右に妻の緑のドレス、奥には赤い天蓋のベッド、左の窓から差し込む光。そして中央、2人のあいだの戸口に、こちらへ入ってこようとする2人の人物が立っています。ナショナル・ギャラリーの解説では、1人は赤い服、もう1人は青い服とされ、訪問者なのか、画家とその助手なのか、あるいは絵の前に立つ僕たち自身なのか、といくつかの読み方が並べられています。

もうひとつ、鏡そのものの装飾にも注目してみてください。木の枠に沿って、10個の小さな円形の場面がぐるりと並んでいます。これはキリストの受難、つまり捕縛から磔刑、復活までを描いたもので、ナショナル・ギャラリーによれば、ひとつひとつが小さな凸型のガラスで覆われているそうです。画面の上ではほんの点のような円なのに、そこで場面が描き分けられている。ここを見るためだけにロンドンへ行く価値があるのかなと感じます。

ナショナル・ギャラリーは、この映り込んだ人物の一人がファン・エイク自身ではないか、という見方を紹介しています。鏡のまわりの額縁には、キリストの受難の場面を描いた小さな円形の絵が並んでいるとされ、細部までのぞきこみたくなる部分です。

見どころ2 署名「ファン・エイク、ここにありき」

鏡のすぐ上の壁に、飾り文字でラテン語の署名が書き込まれています。「Johannes de eyck fuit hic 1434」——訳すと「ヤン・ファン・エイク、ここにいた 1434年」。作品にサインを入れるだけでなく、まるでその場に立ち会った証人のように「私はここにいた」と記す。ちょっと変わった署名です。この一文から、画家がこの場面の立会人(証人)として描き込まれたのではないか、という解釈も生まれました。あくまで読み方のひとつですが、絵の中に画家自身が紛れ込んでいるとしたら、なんだかぞくっとしますよね。

見どころ3 部屋にちりばめられた象徴

この部屋にある小道具は、ただの生活用品に見えて、昔からさまざまな意味が読み取られてきました。以下は代表的な「読み」で、どれも確定した答えではなく解釈のひとつです。それでも、こう考えながら見るとぐっと面白くなります。

  • 小さな犬:忠実さや夫婦の貞節の象徴とされます。じっとこちらを見ている愛らしい姿です。
  • シャンデリアのろうそく:昼間なのに1本だけ灯っています。神の存在や、婚姻の場を照らす光と読まれることがあります。
  • 窓辺の果物:オレンジ類とされ、当時は高価な輸入品でした。富の表れとも、失われた楽園の象徴とも言われます。
  • 脱ぎ捨てられた木靴:パッテンと呼ばれる木製の履物です。その場が神聖であることを示す、という読み方があります。
  • ベッド柱の彫刻:出産の守護聖人とされる聖マルガリタの像と考えられ、家庭や出産への願いと結びつけられることがあります。

「奥さんは妊娠している?」という誤解

この絵を見て「女性は妊娠しているのでは」と感じる人は少なくありません。でも、これは誤解だという見方が有力です。彼女がおなかのあたりで持ち上げているのは、当時流行した厚手のドレスの布地。たっぷりした布をたくし上げて歩くのが上品とされ、その豊かな布の量そのものが富を示していました。つまり「妊婦の絵」ではなく「贅沢な衣装の絵」というわけです。断定はできませんが、少なくとも妊娠を描いたと決めつけないほうがよさそうです。

結局、何のための絵なのか

この絵が何のために描かれたのかも、実ははっきりしていません。結婚(あるいは婚約)を記念し、その証明のように残した絵だとする説がよく知られています。一方で、すでに亡くなった妻への追悼として描かれたのではないか、という説もあります。ナショナル・ギャラリー自身も人物の特定に「?」を付けているくらいで、決定的な答えは出ていません。だからこそ、見る人それぞれが物語を想像できる。答えが一つに定まらないことが、この絵の魅力になっているのだと思います。

油彩だからこそのリアルさ

細部の描写の細かさも、この絵の大きな見どころです。ファン・エイクは油彩(油で顔料を溶いて描く絵具)の技法を高いレベルまで磨き上げた画家でした。「油絵を発明した人」と語られることもありますが、実際には先人たちの技法を大きく発展させた、というのが今の理解です。透明感のある絵具を薄く何層も重ねることで、真鍮の輝き、毛皮のやわらかさ、鏡のガラスの質感までを描き分けています。近くで見ると、その一つひとつの手ざわりが伝わってくるはずです。

どこで見られる?

《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、ロンドンのナショナル・ギャラリー(National Gallery)が所蔵しています。1842年に同館が購入して以来のコレクションで、現在の展示室はRoom 52。ナショナル・ギャラリーの常設展は基本的に無料で見られます(特別展は有料)。ロンドンの中心、トラファルガー広場に面した堂々たる建物です。展示替えや貸出で見られない場合もあるので、実物を目当てに訪ねるなら公式サイトで展示状況を確認しておくと安心です。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー トラファルガー広場
ロンドン・ナショナル・ギャラリー(トラファルガー広場)。Ray in Manila, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons.

もっと知りたい人に(関連書籍)

この一枚の細部と謎をもっと追いかけたい人には、次の2冊が入り口になります。

『ファン・エイク アルノルフィーニ夫妻の肖像』(名画の秘密) 。この一枚に絞って、豊富な図版とともに細部の意味を読み解いていく本。今回の記事で気になった小道具や鏡の謎を、さらに深掘りしたい人におすすめです。

※価格・在庫は変動する場合があります。最新情報は各商品ページをご確認ください。

まとめ

《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、豪華な部屋に立つ2人を描いた肖像であると同時に、鏡・署名・小道具に「読み解いてほしい」というサインが散りばめられた絵です。誰を描いたのか、何のための絵なのか——答えが一つに定まらないからこそ、600年近くも人を惹きつけてきました。ロンドンを訪れる機会があれば、ぜひあの小さな鏡の中をのぞきこんでみてください。あなたには、そこに誰が映って見えるでしょうか。

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