オランダ絵画のなかでも、いちばん多くの人が顔を思い浮かべられる一枚かもしれません。ヨハネス・フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》。暗がりからこちらを振り返り、唇をわずかに開いた少女——名前も、素性も、正確な制作年も、はっきりとは分かっていません。それでも見る人を惹きつけて離さない。だから「北のモナ・リザ」とも呼ばれます。
僕がこの絵をすすめたいのは、謎の多さそのものが魅力になっているからです。モデルは誰か、耳の真珠は本物か、あの青はどうやって出したのか。近年の科学調査で見えてきたことも交えて、この記事で一枚ずつほどいていきます。
しかもタイミングがいい。2026年8月21日から9月27日まで、大阪中之島美術館でこの《真珠の耳飾りの少女》が公開されています。日本で実物に会えるのは14年ぶり。会場へ行く前の予習にも使えるよう、見どころを整理しました。
《真珠の耳飾りの少女》1665年頃

作品データ:真珠の耳飾りの少女/1665年頃/油彩・キャンバス/44.5×39cm/マウリッツハイス美術館(デン・ハーグ)蔵
まずは基本から。画面にいるのは、青いターバンを巻き、大粒の真珠を耳に下げた少女がひとり。背景は暗く、少女の顔と真珠だけが光のなかに浮かびます。大きさは44.5×39センチと、思ったより小さい。美術館で初めて対面した人が「こんなに小さいのか」と驚く、あのサイズです。
この絵の強さは、描き込みの多さではなく、削ぎ落とし方にあります。装飾も物語もほとんどありません。黒い背景に少女だけを沈め、光の当たった部分にだけ絵具を置く。使う色もラピスラズリ由来の青と、黄や肌色にほぼ絞られています。この引き算によって、見る人の視線が少女の眼差しへまっすぐ集まります。
この少女は誰? ―― 「肖像画」ではないという見方
真っ先に気になるのが、モデルは誰かという点だと思います。フェルメールの娘マーリアだ、いや使用人だ、恋人だ——さまざまな説が語られてきましたが、確かな裏づけはどれにもありません。真相は分かっていない、というのが今のところの答えです。
ここで手がかりになるのが、この絵はそもそも特定の誰かを写した肖像画ではない、という考え方です。美術史では、こうした絵をトローニーと呼びます。トローニーとは、実在する人物の記録ではなく、印象的な表情や衣装、頭部そのものを主題にした習作的な絵のこと。異国風のターバンも、現実の誰かの持ち物というより、絵を魅力的に見せるための演出と考えられています。モデルの正体を突き止めるより、「理想化された眼差し」として味わうほうが、この絵の本質に近いのかもしれません。
金より高かった「フェルメール・ブルー」
この絵を語るうえで外せないのが、ターバンの青です。フェルメールが好んだこの深い青はウルトラマリンという絵具で、原料はアフガニスタンで採れるラピスラズリという半貴石。当時は同じ重さの金より高価とも言われた、飛び抜けた贅沢品でした。
寡作なフェルメールが、この小さな一枚のためにそれほど高い顔料を惜しみなく使っている。そこに、彼がこの絵にかけた本気がにじみます。ターバンの陰にも安い黒で済ませず、青そのもので深みを出しているとも指摘されます。あの青の美しさは、財布の中身と引き換えに手に入れたものでもあったわけです。
耳の真珠は、実は“描かれた光”だった
大粒の真珠にも謎があります。まず、本物の真珠にしては大きすぎる。天然でこのサイズはまず採れないため、ガラスや錫でできた模造真珠ではないか、あるいは絵としての誇張ではないか、と考えられています。
さらに驚かされるのが描き方です。2018年にマウリッツハイス美術館が行った科学調査「ガール・イン・ザ・スポットライト」によると、この真珠には輪郭線がまったくありません。白い絵具の、透けたタッチと不透明なタッチを二つ置いただけ。しかも耳から吊るすための金具も描かれていない。真珠は物体として描かれているのではなく、光の反射だけで存在を感じさせる、いわば描かれた光なのです。
最新調査が見つけた「消えた緑のカーテン」とまつ毛
同じ2018年の調査は、背景についても新発見をもたらしました。今でこそ少女の背後は真っ黒に見えますが、フェルメールはもともとそこに緑のカーテンを描いていたと分かったのです。画像分析で、斜めに走る折り目や色のムラが確認されました。緑の絵具が数百年のあいだに化学変化を起こし、平らな暗がりに見えるまで変色してしまった、というわけです。描かれた当初、少女は暗闇ではなく、緑の布を背にして立っていたことになります。
もう一つ、肉眼では見えないまつ毛も見つかりました。両目のまわりに、ごく細い毛が描き込まれていたのです。加えてフェルメールは、耳やターバンの上、首の後ろの位置を少しずつ描き直していた跡も残しています。完璧に見える一枚が、実は細かな微調整の積み重ねだった。そう知ると、絵の見え方が少し変わります。
忘れられ、再発見された「北のモナ・リザ」
これほどの絵ですが、はじめから有名だったわけではありません。フェルメール自身、死後は長く忘れられた画家でした。《真珠の耳飾りの少女》も、1881年にハーグの競売にかけられたときの値は、わずか2ギルダー数十セント。今の感覚でいえば捨て値です。落札した収集家デス・トンブがこの絵に価値を見いだし、20世紀の初めにマウリッツハイス美術館へ遺贈されて、ようやく多くの人の目に触れるようになりました。
知名度を決定づけたのが、トレイシー・シュヴァリエの小説(1999年)と、それを原作にした2003年の映画『真珠の耳飾りの少女』です。スカーレット・ヨハンソンが少女を、コリン・ファースがフェルメールを演じました。モデルが誰かも、二人の関係も分からない——その空白が、かえって物語を生む余白になりました。謎が多いことが、この絵の人気をむしろ支えています。
どこで見られる? ―― いま大阪に《少女》が来ている

普段この絵があるのは、オランダ・デン・ハーグのマウリッツハイス美術館です。17世紀の館をそのまま使った小さな美術館で、フェルメールの《デルフトの眺望》やレンブラントの作品なども所蔵しています。旅行で訪ねれば、常設で《少女》に会えます。
ただ、2026年の今なら、オランダまで行かなくても実物を見られます。「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展」が、大阪中之島美術館で開催中です。日本での公開は14年ぶり。基本情報はこちらです。
- 会場:大阪中之島美術館
- 会期:2026年8月21日(金)〜9月27日(日)
- チケット:日時指定の予約制。チケットぴあでの抽選販売で、会場での当日券はありません。最新の空き状況・価格は公式サイトでご確認ください。
会期の終盤は混み合いそうなので、行くと決めたら早めに予約枠を押さえておくと安心です。
もっと深く知るための本
この一枚をさらに味わいたい人に、二冊を挙げておきます。
もっと知りたいフェルメール 改訂版(小林頼子/東京美術)
2017年7月/87ページ/ISBN 9784808710934
もっと知りたいフェルメール 改訂版
[小林頼子]
価格・在庫状況はリンク先でご確認ください
「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展」(朝日新聞出版/AERA Art)
2026年8月/96ページ/ISBN 9784022521453
フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展(公式ビジュアルガイド)
[朝日新聞出版 編]
価格・在庫状況はリンク先でご確認ください
関連記事
まとめ
《真珠の耳飾りの少女》は、分かっていることより分からないことのほうが多い絵です。モデルは誰か、真珠は本物か、なぜこの青なのか。その空白を科学調査や物語が少しずつ埋めながら、それでも核心は謎のまま残っている。だからこそ何度でも見たくなるのだと思います。
大阪で実物に会えるのは9月27日まで。この記事で見どころを頭に入れてから会場に立つと、印刷や画面では気づけなかった細部が、きっと目に飛び込んできます。
