クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I(黄金のアデーレ)》徹底解説|金で描かれた理由・ナチス略奪と返還の物語・どこで見られるか

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アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I グスタフ・クリムト

金色に埋めつくされた画面の中央に、ひとりの女性が浮かびあがっています。グスタフ・クリムトの《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》、通称《黄金のアデーレ》です。世紀末のウィーンで生まれたこの絵は、美しさだけでなく、ナチス・ドイツに奪われ、長い裁判を経て相続人のもとへ返された数奇な運命でも知られています。

この記事では、絵そのものの見どころから、モデルになった女性の正体、金と銀で描かれた理由、そして「黄金のアデーレ」と呼ばれるようになった歴史までを、順を追って見ていきます。今どこで実物を見られるのかも最後に紹介します。

目次

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》はどんな絵か

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I グスタフ・クリムト
グスタフ・クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年、ノイエ・ギャラリー(ニューヨーク)蔵。Public domain, via Wikimedia Commons.

作品データ:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I / 1907年 / 油彩・銀箔・金箔、カンヴァス / 約140×140cm(138cmとする資料もあります) / ノイエ・ギャラリー(ニューヨーク)蔵

まず目を引くのは、画面のほとんどが金色で覆われていることです。実際に金箔(きんぱく)と銀箔(ぎんぱく)が貼られていて、光の当たり方でちらちらと輝きます。金色の中に、アデーレの顔と両手、そして胸もとだけが、やわらかな肌の色で描かれています。全体の中で肌が見えているのは、ごくわずかな面積だけ。だからこそ、彼女のまなざしと表情が強く印象に残ります。

クリムトはこの絵に、ほかのどの作品よりも念入りな準備を重ねました。1903年から翌年にかけて描いた下絵は100点を超えたと伝えられています。完成は1907年。クリムトの「黄金様式」と呼ばれる時期を代表する一枚です。

モデルになったアデーレ・ブロッホ=バウアーとは

描かれているアデーレ・ブロッホ=バウアー(1881〜1925)は、ウィーンの裕福なユダヤ系一家に生まれ、砂糖産業などで成功した実業家フェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻でした。自宅で芸術家や知識人を招くサロンを開いた、社交界の中心人物です。

じつはアデーレは、クリムトが正式な肖像画を2度描いた唯一の人物でもあります。1907年のこの絵と、1912年の《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II》の2枚です。首もとを飾る宝石の首飾りは、クリムトが別の作品《ユディト I》でも描いたものと同じと言われ、モデルとの深いつながりをうかがわせます。とはいえ、2人の関係を裏づける確かな証拠が残っているわけではありません。

なぜ金と銀で描かれたのか

クリムトが金色にこだわった背景には、イタリア旅行の体験があります。1903年、彼はラヴェンナという街のサン・ヴィターレ聖堂を訪れ、壁面をびっしりと覆うビザンティンのモザイクに強く心を動かされました。金色を敷きつめた背景の上に人物を配するこの様式は、「金地(きんじ)」やゴールドグラウンドと呼ばれます。平らな金の面の中に人物が浮かび、まるで聖なるイコン(キリスト教で信仰の対象として描かれた聖画像)のように見えるのが特徴です。

この絵でも、金地の効果でアデーレは現実の部屋の中というより、光そのものの中にいるように見えます。金箔や銀箔を貼るだけでなく、盛り上げて模様をつくる技法(下地材を使って表面にレリーフ状の凹凸を出す方法)も使われていて、近くで見ると装飾が立体的に浮き出ています。額縁は、ウィーン工房を率いた建築家ヨーゼフ・ホフマンが手がけました。

画面に隠された「A」と「B」

金色のドレスと背景をよく見ると、四角、渦巻き、目のような形、アーモンド形など、さまざまな模様が敷きつめられています。その中には、彼女の名前の頭文字である「A」と「B」をかたどった装飾もまぎれこんでいます。エジプトやギリシャ、ミケーネの古代美術を思わせるこれらの文様は、単なる飾りではなく、モデルの存在をそっと画面に刻みこむ役割も果たしています。

ちなみに、当時この絵の評価は割れました。ある批評家は「黄金の厨子(ずし)に納められた偶像」と称賛し、別の批評家は皮肉をこめて「ブロッホというより真ちゅう(ブレッヒ)だ」とけなしました。今でこそ誰もが認める名画ですが、発表当初は賛否の分かれる挑戦的な絵だったのです。金色に画面全体を覆う手法は、同じ時期の代表作クリムト《接吻》にも共通しています。

「黄金のアデーレ」と呼ばれるようになった理由

この絵が《黄金のアデーレ》あるいは《ウーマン・イン・ゴールド(黄金の女性)》と呼ばれるようになった背景には、悲しい歴史があります。1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、ユダヤ系だったブロッホ=バウアー家は財産を奪われ、フェルディナントは国外へ逃れました。残された絵もナチスに接収されます。

1941年、この肖像画はウィーンのベルヴェデーレ宮(オーストリア絵画館)に収められました。その際、モデルがユダヤ人であることを隠すため、作品名から「ブロッホ=バウアー」の名が外され、《ダーメ・イン・ゴールト(黄金の貴婦人)》と呼び替えられたのです。つまり「黄金のアデーレ」という通称の裏には、彼女の名前がいったん奪われたという事実が隠れています。

奪われた名画が返ってくるまで

物語には続きがあります。アデーレは1925年に亡くなる前、遺言でクリムトの絵をオーストリアの国立美術館に寄贈してほしいと書き残していました。ただし絵の法的な持ち主は夫フェルディナントで、これは「お願い」にとどまるものでした。戦後、この一文の解釈が、返還をめぐる裁判の大きな争点になります。

立ち上がったのは、フェルディナントの姪でアメリカに亡命していたマリア・アルトマンです。彼女はオーストリア政府を相手に絵の返還を求めました。2004年にはアメリカの連邦最高裁が、外国政府を相手取ったこの訴えをアメリカ国内で審理できると認めます。そして2006年、オーストリアでの仲裁裁判で、この《肖像 I》を含む一家ゆかりのクリムト作品5点を相続人へ返すという判断が下されました。数十年ぶりに、絵はアデーレの家族のもとへ戻ったのです。

その後まもなく、マリアはこの絵を、ナチス略奪美術品の返還運動を支援していた実業家ロナルド・ローダーに売却しました。金額は当時の絵画取引として史上最高額とされる1億3500万ドル。こうして絵は、ローダーが創設したニューヨークのノイエ・ギャラリーに収まりました。この一連の出来事は、2015年の映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』でも描かれています。

どこで見られる? ニューヨークのノイエ・ギャラリー

ノイエ・ギャラリー・ニューヨークが入る建物(1048 5番街、旧ウィリアム・スター・ミラー邸)
《黄金のアデーレ》を所蔵するノイエ・ギャラリー・ニューヨーク(1048 5番街、旧ウィリアム・スター・ミラー邸)。Gryffindor, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons.

《黄金のアデーレ》は現在、ニューヨークのノイエ・ギャラリーで見ることができます。5番街の「ミュージアム・マイル」に面した優雅な邸宅を改装した美術館で、20世紀初頭のドイツ・オーストリア美術を専門にしています。旅行で訪れる場合は、開館日や特別展の情報を公式サイトで確認してから出かけると安心です。日本の美術館とちがい、この絵は常設で展示されているのが基本です。

もっと深く知りたい人へ

クリムトの生涯と作品をひととおり知りたい人には、入門書の定番『もっと知りたいクリムト 生涯と作品』(千足伸行 著、東京美術)がおすすめです。黄金様式の時代を含め、代表作を年代順にたどれます。(1,760円税込/ISBN 9784808708108 ※価格・在庫は変動する場合があります)

金や銀の質感、細かな文様まで大きな図版でじっくり味わいたいなら、『クリムト原寸美術館 100% KLIMT!』(千足伸行 監修、小学館)が向いています。原寸大のクローズアップで、《黄金のアデーレ》の輝きを紙の上で確かめられます。(3,850円税込/ISBN 9784096822944 ※価格・在庫は変動する場合があります)

まとめ

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は、金と銀で描かれた美しさと、ナチスに奪われて返還されるまでの重い歴史が、一枚の中に重なった絵です。金地の中に浮かぶアデーレの顔を見るとき、そこには一度は隠された彼女の名前と、それを取り戻した家族の物語も一緒に見えてきます。ニューヨークを訪れる機会があれば、ぜひ実物の輝きを確かめてみてください。

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