ロンドンのテート・ブリテンで、多くの人が足を止めてじっと見入る一枚があります。ジョン・エヴァレット・ミレイの《オフィーリア》です。水面に仰向けで浮かぶ女性、そのまわりを埋めつくす草花。美しいのに、どこか胸がざわつく。僕も、初めて画集でこの絵に出会ったときのことをよく覚えています。
この記事では、絵に描かれているのは誰なのか、モデルにまつわる有名なエピソード、花々に込められた意味、そして実物をどこで見られるのかまで、順番にたどっていきます。読み終えるころには、きっとこの絵を実際に見たくなっているはずです。
《オフィーリア》1851–52年
作品データ:《オフィーリア》/1851–52年/油彩・カンヴァス/76.2×111.8cm/テート(Tate、ロンドン)
まずは絵そのものを見てみましょう。画面いっぱいに描かれた小川に、若い女性が仰向けで浮かんでいます。手のひらを上に向け、口をわずかに開き、視線はどこにも定まっていません。生きているのか、もう息絶えているのか——その境目のような一瞬が、静かに切り取られています。
背景の草花は、ぎょっとするほど細かく描き込まれています。ミレイは実際にイギリスの川辺に通い、目の前の植物を一つずつ写し取りました。この「自然をありのままに、細部まで正確に描く」という姿勢こそ、彼が属したグループの信念そのものでした。
そもそもオフィーリアって誰?
オフィーリアは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する女性です。主人公ハムレットが愛した相手でありながら、物語のなかで心を病み、川に落ちて命を落とします。その最期は舞台の上では演じられず、王妃ガートルードの語りによって伝えられます。花を摘みながら川辺の枝によじ登り、枝が折れて水に落ち、歌を口ずさみながら流されていった——そんな場面です。
ミレイが描いたのは、まさにこの「歌いながら水に浮かび、少しずつ沈んでいく」瞬間でした。悲劇のクライマックスを、静かな水辺の一場面として切り取ったのです。
この絵は何がすごいのか
ひとつは、言葉でしか語られなかった一瞬を「絵」にしてしまったことです。前に書いたとおり、オフィーリアが溺れる場面は舞台では演じられず、劇中ではただ報告されるだけ。ミレイはその見えない瞬間に顔と体温を与えました。しかも背景の自然描写が尋常ではありません。彼はイングランド南部の川べりに何か月も通って屋外で写生し、水草や花を一本ずつ実物どおりに描いています。植物の種類が見分けられるほど正確だと言われるほどで、「目に映るものを、ありのままに描く」という当時としては過激な姿勢が、この一枚に凝縮されています。
もうひとつは、「死」と「美しさ」が同じ画面に同居していることです。描かれているのは若い女性が命を落とす悲しい場面なのに、水も光も花も、ため息が出るほど美しい。悲劇なのに見とれてしまう——この居心地の悪い矛盾こそが、見る人の心に長く残る理由だと僕は思います。実際《オフィーリア》は、いまやイギリス絵画を代表する一枚として世界中で知られ、後世の写真や映画、ファッションのなかでも繰り返し引用されてきました。タイトルを知らなくても、どこかでこの構図を見たことがある、という人は多いはずです。
モデルはエリザベス・シダル
水に浮かぶオフィーリアのモデルを務めたのは、エリザベス・シダル(1829–1862)という女性です。のちにラファエル前派の画家たちに愛され、画家・詩人としても活動した人物ですが、この絵が描かれた当時はまだ20代前半でした。
有名なエピソードがあります。ミレイは川の場面を描くために、シダルに水を張ったバスタブのなかで長時間ポーズを取らせました。水はランプで下から温められていましたが、制作に夢中になったミレイが火の消えたことに気づかず、シダルは冷えきった水のなかで我慢し続け、ひどい風邪をひいてしまったと伝えられています。絵の静けさの裏に、そんな苦労があったのですね。
ラファエル前派とは何か
ミレイは「ラファエル前派(ラファエルぜんぱ)」と呼ばれるグループの中心人物でした。少し聞き慣れない言葉なので、説明しておきます。
ラファエル前派とは、1848年にイギリスの若い画家たちが結成した集まりのことです。当時の美術教育では、ルネサンスの巨匠ラファエロ以降の様式が「お手本」とされていました。彼らはその型にはまった描き方に反発し、「ラファエロより前の時代のように、自然を誠実に、細部まで真剣に描こう」と考えました。名前の「前派」は、この「ラファエロ以前に立ち返ろう」という姿勢からきています。
《オフィーリア》の草花が驚くほど精密なのは、まさにこの信念の表れです。彼らにとって、川辺の一本の草も、手を抜いていい対象ではなかったのです。
水辺に浮かぶ花々の意味
この絵のもう一つの見どころが、オフィーリアのまわりに描かれた花々です。これらは単なる装飾ではなく、それぞれに意味が込められていると考えられています。多くは『ハムレット』の台詞や、当時親しまれていた「花言葉」に由来するものです。
たとえば、水面に浮かぶ赤いケシは眠りと死を、ヒナギクは無垢を、パンジーは報われぬ思いを表すとされます。首元に描かれたスミレは誠実さや若い命の死を、ノイバラやワスレナグサもそれぞれに象徴を担っていると解釈されてきました。ただし花の同定や意味の読み取りには諸説あり、研究者によって解釈が分かれる部分もあります。「すべてに確定した正解がある」というより、絵と戯曲を行き来しながら想像をふくらませる楽しみがある、と考えるのがよさそうです。
どこで実物を見られる?
《オフィーリア》は、イギリス・ロンドンのテート(Tate)が所蔵しています。実業家ヘンリー・テートが1894年に国へ寄贈したコレクションの一つで、ふだんはテート・ブリテンで公開されています。イギリス絵画の名品が集まる美術館なので、ロンドンを訪れる機会があれば、ぜひ本物の前に立ってみてほしい一枚です。
また、この絵はこれまで日本にも来日し、展覧会で公開されたことがあります。次にいつ日本で見られるかは、今後の展覧会情報を待ちたいところです。
もっと深く知りたい人へ
《オフィーリア》をきっかけに、ラファエル前派の世界をもっと知りたくなった人には、画集『ロセッティとラファエル前派』(松下由里・木島俊介)がおすすめです。ミレイやロセッティら中心メンバーの作品を通して、このグループの成立から終わりまでをたどれる一冊で、図版も豊富です。《オフィーリア》の細やかな筆致に惹かれた人ほど楽しめると思います。※価格・在庫は変動する場合があります。最新情報は商品ページでご確認ください。
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まとめ
ミレイの《オフィーリア》は、シェイクスピアの悲劇の一場面を、息をのむほど精密な自然描写でよみがえらせた一枚でした。モデルのエリザベス・シダル、細部までこだわったラファエル前派の信念、花々に込められた意味——知れば知るほど、水面の静けさの奥行きが変わって見えてきます。
美しさと悲しさが同居するこの絵の前では、きっと誰もが少し立ち止まってしまう。それこそが、150年以上ものあいだ人々を惹きつけてきた理由なのだと思います。
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